千一夜物語

朝方、牙と玉藻の前を下がらせた黎は、澪の元に戻ろうと立ち上がった黒縫に問いかけた。


「あの顔の入れ墨はなんだ?」


『あれは…澪様の家では嫁ぐ時に目の下に蔦の絡まった入れ墨を入れる習わしがあります。それを旦那様に半ば強引に彫られて…澪様は泣き叫んで抵抗しました』


「…そうか」


『誓った方の元へ行くのだと何度も懇願していましたが、旦那様は許さず…」


押し黙った黎の膝に顔を擦りつけてすりすりした黒縫は、黎に念押しをした。


『ですから誤解を解いて頂きたいと言ったのです。きっとてもお喜びに…』


「分かっている。悪いが少し待ってくれ」


澪の亭主となる黎は主と同じ。

頷いた黒縫が立ち上がって澪の元に戻ろうとすると、廊下を静かに歩いて来る足音がして黎と黒縫は息を潜めて足音の主が近付いて来るのを待った。


『澪様』


「黒縫…傍に居てって言ったのに」


『申し訳ありません』


――かなり距離を隔てた場所で座った澪は相変わらず鼻先まで隠れるつのかくしを被っていて表情は分からない。

黎はそれをちらりと横目で見て、黒縫の頭を撫でてやった。


「…この鵺は忠実だな」


「……私の黒縫に触らないで」


黎が手を離すと黒縫は申し訳なさそうにしながら澪の元に戻り、澪の周りをくるりと回って包み込むようにしながら伏せた。


「文には嫁を先に送ると書いてあった。申し訳ないが俺はこの話を知らなかったから驚いている。…お前には何もしないから安心してくれ」


澪はふと顔を上げた。

その声をなんとなく知っている気がして、黎の整いすぎた横顔を穴が空くほど見つめた。


「そう…なの…?」


「…他の男に想いを寄せている女に無理強いする趣味はない。祝言はまだ先の話だし、このまま破談でもいい。話が進むまでゆっくりするといい」


口元が緩んであからさまにほっとした澪を見届けた黎は、一応自室と定めてある部屋の障子を開けて中へ入って閉めた。


――嫁に望んでいる女は、自分を拒絶している。

そんな経験をしたことがないし、またどう説き伏せればいいのか相変わらず答えは出ず、眠れずに床に丸くなった。