千一夜物語

納戸に乗り込んできたのは、いかにも厳格そうで体格の良い中年の男だった。

すぐに澪の父だと分かったが、黎は自分と澪を守ろうと眼前に立ち塞がった黒縫の身体を撫でて脇を抱えてひょいと傍に避けた。


「お父様、この方は怪我をしていて!だから私が看病を…」


「お前の言い分は後で聞く。貴様…今澪に何をしようとしていた?言い分によっては貴様の命はないぞ」


「ご覧の通り、お前の娘の唇を奪おうとしていた。いや、あわよくば操も頂こうと思っていたんだが邪魔が入ったな」


あけすけもない黎の悪びれない態度に激高した父親が刀を抜くと、黎は抑えていた妖気を身体から噴き出して父親を躊躇させた。


「やりあってもいいがやめておいた方がいい。お前の娘には世話になったから礼をしたかったんだが…」


「先程のあれが礼だと言いたいのか!?貴様が強いのは分かった。だが娘はやれんぞ。貴きご身分の方の妻となるのだからな」


「俺も一応身分は高いんだがまあいいか、興醒めした。澪、ほとぼりが冷めたらまた来る。あと一瞬でいいから目を閉じろ」


ひそりと黎が隣で固まっている澪に耳打ちすると、澪は父親の顔色を窺いながらも一瞬だけ目を閉じた


黎はその隙を狙って父親に背を向けて夜叉の仮面を外して――澪の唇を奪った。


「っ!」


「貴様!い…今娘に何を…!」


「お前の唇は頂いた。続きはまた今度しに来る」


目を開けるとすでにもう仮面をつけていた黎に唇を奪われた澪は嬉しさで満面の笑顔になって黎の袖を掴んだ。


「また!絶対来てね…約束して!」


「約束する。黒縫、頼んでいいか?」


『かしこまりました』


呆気に取られている父親に黒縫が突っ込んでいき、その勢いで尻もちをついたところを黎が疾風の如く速さですり抜けて大きく跳躍した。


澪は納戸から飛び出て黎の後ろ姿にずっと手を振っていた。


――あの人のお嫁さんになりたい。

顔も分からず名も分からないままだったが…


恋をした、と感じた。