千一夜物語

幽玄町に戻った伊能は、すぐさま黎と対面して経緯を説明した。

黎は黙ったまま口出しをすることなく聞いた後、何かを書き散らした紙を集めながら伊能を労った。


「ご苦労だったな。お前には今後もっと苦労をかけることになる」


「この命は主さまに救って頂いた時からあなたのもの。私が死んだ後は息子にその責務を譲り、代々あなたにお仕えしていきます」


うん、と笑みを見せて伊能との対面を終えた黎は――神羅がどんな様子だったのか訊きたかったものの、もう会えない女の様子を訊いてどうするのかという相反した自身の内なる声と戦っていた。


「くそ…」


「黎さん、お話終わった?お茶持って来たよ」


「ああ、ありがとう。澪、ここに座ってくれ」


それまで忙しくしていた黎に遠慮して声をかけなかった澪がやって来ると、黎は美しい横顔に苦悩を滲ませながら契約の書かれた巻紙に目を落とした。


「俺は明日実家に帰って親父と話をして来る。お前も行くか?」


「え、私も?……ううん、私はいいよ。ここでお留守番してる」


「一緒に…行かないのか?」


「うん。黒縫も怪我してるし、町の皆さんのお手伝いを…」


「澪」


――澪が一晩戻らなかった自分に対して複雑な心中であることは十分に理解していた。

今後死に別れるまで共に在る存在の澪を傷つけていること――黎がぎゅっと唇を噛み締めると、澪は慌てたように膝をつきながら黎ににじり寄って真っ白になっている拳を優しく包み込んだ。


「黎さん…あっ、いけない、主さまだったね。主さま、私はこれからもずっとずっと味方だよ。苦しんでる時も笑ってる時もずっと一緒。だから私の前では我慢しなくていいの。私、分かってるから。私も…神羅ちゃんのこと、好きだから」


我慢しなくていい、と言われた途端――痛みにも似た神羅への恋情が競り上がってきた。

歯を食いしばって耐える黎を抱きしめた澪は、黎の代わりに泣いてやりながら、何度も囁いた。


「ずっと傍に居るからね…」


――黎はその後神羅を思い出しては業火に焼かれるように身も心も焦がすことになるが、その命を失わなかったのは、澪の存在が大きかった。


「ありがとう、澪…」


それは、ふたりの在り方だった。