「よく来てくれました。ささやかですが、夕餉を食して行きなさい」
「いえ、結構です、すぐ戻りますので。…こちらが主さまからの文でございます」
「……主、さま…?」
ばさりと音がして目を上げた伊能は、御簾を上げて中から出て来た神官衣姿の神羅を無表情に見つめた。
神羅はやや切れ長の目を見開いて驚いている様子で、伊能は恭しく文を両手で差し出した。
「黎様は今後‟主さま”と呼ぶようにと仰られましたので」
「…そう…そう、ですか…」
――神羅は伊能が差し出した文を指が震えそうになるのをなんとか堪えながら受け取って、伊能の前に正座して文を開いた。
…内容は、期待していたような浮ついたものではなく、達筆で淡々と橋と町の名を変えると書いてあり、そして現在幽玄町に住んでいる住人たちの名や出身地、年齢が書いてあった。
…自分への私信は、何ひとつない。
自分から去ったくせに黎が何か優しい言葉をくれるのではないかと期待してしまい、それでも黎の文が嬉しくて、胸に抱きしめた。
「…黎はどう過ごしていますか?」
「多忙を極めております。今日だけで各方面へ契約の内容を話し、理解を得ましてございます。明日はご実家へ発たれるとのこと」
「実家…?」
「主さまは実質当主ではありますが、実権を握っているのはお父上と仰っておられました。お父上の協力なくしては、百鬼夜行は行えぬだろうと仰られて…」
「百鬼…夜行…?」
…伊能から見て、神羅は黎への未練を多分に滲ませていた。
昨日の今日で男女の想いが変わるはずがない――
食い入るように見つめてくる神羅と目を合わさぬよう常に伏し目がちを心掛けた伊能は、深々と頭を下げた後、座ったまま数歩後退った。
「主さまが今後為そうとしている人と妖の見える境界線としてのお立場…その思いに共感する者たちは黎様と契約を交わして百鬼と総称されます。主さまと共に列を作って空を行く様を百鬼夜行と呼ぶそうです。…いずれ御所の上空を行くこともあるでしょう」
「……黎…」
黎は実行に移してくれている。
困難を極め、とても実現しそうにないことを成し遂げようとしてくれている――
ただただ、嬉しかった。
ただただ嬉しくて、何度も黎の字を指でなぞって、愛しさに胸が詰まった。
「いえ、結構です、すぐ戻りますので。…こちらが主さまからの文でございます」
「……主、さま…?」
ばさりと音がして目を上げた伊能は、御簾を上げて中から出て来た神官衣姿の神羅を無表情に見つめた。
神羅はやや切れ長の目を見開いて驚いている様子で、伊能は恭しく文を両手で差し出した。
「黎様は今後‟主さま”と呼ぶようにと仰られましたので」
「…そう…そう、ですか…」
――神羅は伊能が差し出した文を指が震えそうになるのをなんとか堪えながら受け取って、伊能の前に正座して文を開いた。
…内容は、期待していたような浮ついたものではなく、達筆で淡々と橋と町の名を変えると書いてあり、そして現在幽玄町に住んでいる住人たちの名や出身地、年齢が書いてあった。
…自分への私信は、何ひとつない。
自分から去ったくせに黎が何か優しい言葉をくれるのではないかと期待してしまい、それでも黎の文が嬉しくて、胸に抱きしめた。
「…黎はどう過ごしていますか?」
「多忙を極めております。今日だけで各方面へ契約の内容を話し、理解を得ましてございます。明日はご実家へ発たれるとのこと」
「実家…?」
「主さまは実質当主ではありますが、実権を握っているのはお父上と仰っておられました。お父上の協力なくしては、百鬼夜行は行えぬだろうと仰られて…」
「百鬼…夜行…?」
…伊能から見て、神羅は黎への未練を多分に滲ませていた。
昨日の今日で男女の想いが変わるはずがない――
食い入るように見つめてくる神羅と目を合わさぬよう常に伏し目がちを心掛けた伊能は、深々と頭を下げた後、座ったまま数歩後退った。
「主さまが今後為そうとしている人と妖の見える境界線としてのお立場…その思いに共感する者たちは黎様と契約を交わして百鬼と総称されます。主さまと共に列を作って空を行く様を百鬼夜行と呼ぶそうです。…いずれ御所の上空を行くこともあるでしょう」
「……黎…」
黎は実行に移してくれている。
困難を極め、とても実現しそうにないことを成し遂げようとしてくれている――
ただただ、嬉しかった。
ただただ嬉しくて、何度も黎の字を指でなぞって、愛しさに胸が詰まった。

