「香春さん!!」
誰もいない帰り道。
僕は5歩前を歩く香春さんを少し大きな声で呼び止めた。
香春さんは、びっくりしたように振り返る。
そして、目をぱちぱちと瞬かせた。
「香春さんが教えてくれた、紀貫之(きのつらゆき)がね。」
僕がそう言うと、香春さんはさらに目を瞬かせた。
香春さんは、文学部だ。
古典を研究していて、ちゅうせいぶんがくが好きだって言ってた。
そして、それはそれは楽しそうに紀貫之とか清少納言とか大鏡とか古今和歌集がどうのとか、大和物語がどうのとか話し出す。
僕は古典が好きじゃないけど、香春さんが好きだから、他の教科よりも頑張って勉強した。
「え、急にどうしたの、雪人。紀貫之?」
今までの話と、紀貫之が結び付かない、と言いたげに、香春さんは僕を見上げた。
いつもの香春さんみたいに、僕はちょっと得意げな顔を作ってみた。
「そう、紀貫之がね、こう言ってたんだ。桜散る木の下風は寒からで 空に知られぬ雪ぞ降りける。」
「…え?」
予想外の言葉に、香春さんの眉間にかすかなシワが寄る。
「つまりね、春に咲く桜も、雪も、おんなじなんだよ。」
「…大雑把過ぎて、紀貫之に対するぼうとくだわ。絶対意味違うし。」
僕の言葉を聞いた香春さんが、とても不満そうに唇を尖らせる。
「…ごめん。でも、」
「でも?」
「…雪も、桜とおんなじ気持ちなんだよ。だから。」
僕は香春さんの冷たい手を、少しだけ力を込めて握った。

