東京、神保町。
古書店だけでなく新刊を取り扱う一般の書店も、専門書を集める個性的な本屋も、出版社や編集プロダクションも集まる世界的な本の街。

私がこの春から勤め始めた出版社、清谷書房もその一角にある。

中堅の出版社である清谷書房は、一般書籍を中心にしたラインナップで、文庫も新書も出しており、一般にも名が知られている。

雑誌や写真集は、ほとんど取り扱っていない一方で、力を入れているのが、翻訳出版だ。
ミステリーとファンタジーを中心とした小説のラインナップは、特に高い評価を得ている。

大好きな本の街で、憧れの出版社で働くことのできた私は、ようやく仕事にも慣れてきたところ。
営業の外回りの前にランチにしようと、会社近くの喫茶店に行く。

戦後すぐから続くレトロな喫茶店は、昔から文化人に愛されたという伝統あるお店。
歴史あるお店で、昔ながらの分厚い玉子サンドとミルクコーヒーを楽しむと、この街の一員になれた気がする。

今の店主さんの若い感性で、私のような世代でも居心地良く整えられた空間へ入ると、店内から元気よく声をかけられた。

「汐璃!」
「秋穂。それに直島さんも。お疲れ様です」
「お疲れ。良かったら、こっちにおいでよ」

大きなメガネがトレードマークの同期、井口秋穂と、スーツが似合うその先輩、直島翔平さんだった。
二人とも、第二編集部翻訳文芸課で編集者の仕事をしている。
営業部の私と、仕事の上での接点はほとんどないけれど、秋穂とは同期の中でも一番仲が良い。

二人とも、まだ食べ始めのようだ。
遠慮なく同席させてもらい、ちょっと迷った末に、いつもの玉子サンドを注文する。

「ねえ。汐璃は、ジョー・ラザフォードの作品読んだ?」

早速といった調子に、秋穂が話しかけてくる。

「もちろん。『シークレットロマンス』は、映画も良かったし」

ジョー・ラザフォードは、アメリカの恋愛小説家だ。
代表作『シークレットロマンス』は、映画化され、世界中の女性の心を奪った。
清谷書房では、この原作本を邦訳し、ベストセラーとなっている。