彼とのデートの約束の日まで、美来と里沙さんに、うまくいってよかったね、なんて、
散々茶化されたけど、私の本心は、それどころではなかった。
颯太くんのことが、どうしても思い出せない。
彼らは兄弟で、将樹さんはお兄さんの方で、
私が好きだったのは、颯太くんの方。
実家の近くに住んでて、母親同士も仲良くて、それで……、
小学校へは、一緒に通った?
放課後に、なにして遊んだ?
子供の頃の、初恋の思い出なんて、そんなに記憶に残ってないもんだと言われれば、
そうなのかもしれない。
だけど、私には、気がつけば、小学校の思い出が、何一つ残っていない。
クラスのことも、教室のことも。
仲のよかった友達は?
担任の先生は、どんな人だった?
覚えているのは、小学校の校舎の外観だけ。
それでは、思い出とは言えない。
「待った?」
待ち合わせ場所に現れた将樹さんは、
紺色のパンツに合わせた、ジャケットにボーダーのTシャツ姿。
先に来ていた私に挨拶を済ませた後で、片袖を持ちあげて、腕時計を確認する。
「うん、ちょうどいい時間だね」
私たちは、並んで歩き出した。
「弟さんは、颯太くんは、今、どうしてるんですか?」
その質問に、将樹さんは笑って、ちゃんと答えてくれない。
「なに、思い出せないの?」
その台詞に、『はい、そうなんです』とは、
さすがに失礼すぎて、答えられない。
「いえ、どうしてるのかなって、ほら、顔を合わさなくなってから、
ずいぶん経ってるじゃないですか」
「どうして、顔を合わさなくなった?」
頭の芯がくらくらする。
脳内に残されているはすの、子供の頃の記憶を、必死で辿る。
「えっと、引っ越したから」
「ふふ、正解」
将樹さんは、私を試すかのような質問を、なかなかやめてくれない。
将樹さんの案内で、オープンテラスの、お店に入った。
「ここで、ランチを食べていこう」
五月の風が吹く。
先に出されたアイスティーのグラスの中で、氷がカランと音をたてた。
「で? 他に覚えてることは?」
将樹さんは、ほおづえをついて、私を問い詰める。
「えっと、小学校の時は、同じクラスでした」
「本当に?」
「多分」
「それは、僕も覚えてないな」
将樹さんは、ストローで氷をかき混ぜてから、一口飲んだ。
「他には?」
そう続けざまに聞かれても、私には何一つ記憶がなくて、
もうそれ以上答えられない。
黙ってうつむいた私に、将樹さんは言った。
「初恋の人だっていうのに、覚えられてないなんて、弟もかわいそうだね」
「そ、そんなことはないです!」
「じゃあ、言ってみて」
どれだけ記憶を辿っても、どうしても思い出せない。
将樹さんは、そんな私から、言葉が出てくるのを、じっと待っている。
「すいません、本当は、何にも覚えてないんです」
「やっぱり、そうなんだ」
「覚えてないっていうか、思い出せないんです」
食事が運ばれてきた。黄色い卵のオムライス。
将樹さんは、大きなスプーンを手に取った。
「食べながら、話そう」
一さじすくって、口に入れる。
それを飲み込んでから、将樹さんは言った。
「僕の知っていることから、教えてあげる」
私は、目の前に置かれたオムライスを見ながら、
仕方なくスプーンを手に取る。
「将樹さんの、知ってることですか?」
「うん、そうしたら、君も、何か思い出すかもしれないでしょ?」
「私に、記憶がないことを、ご存じだったんですか?」
将樹さんは、それには答えずに、オムライスを口にした。
「その日、僕は、サッカーの試合があって、参加していなかった。
君と颯太は、他の子供会のメンバーと一緒に、バスに乗ってスケートリンクに出かけた」
小学五年生の冬、私たちは、マイクロバスに乗って、
地元のスケートリンクに向かっていた。
楽しみにしていた、毎年の恒例行事。そこで、事故にあった。
よみがえる記憶、乗っていたバスが、急ハンドルを切った。
そのとたんに、突然ふりかかった全身の痛みと、響き渡る悲鳴、
血だらけの友達と、動かなくなった男の子。
立ち昇る炎と煙に、私は息が出来なくなって、そのまま意識を失った。
「君は、一ヶ月近く入院して、僕たちの一家は、その間に引っ越してしまった。
事故の有無に関係なく、すでに予定されていた引っ越しだったからね」
手にしたスプーンが、こぼれ落ちる。
私はその日以来、それまでの記憶を失った。
それ以降も、高校生になるまで、ほとんど記憶がない。
無意識に、みかん箱の写真と一緒に、心の奥に押しとどめて、
ずっと封印されていたのだ。
「大きな怪我をしたって聞いたけど、無事でよかった。
記憶を無くしていることも、母親を通じて知ってはいたけど、
まさか、こんなかたちで再会出来るなんて、思いもしなかった」
震える手を、将樹さんの大きな手が、包み込む。
「頼むからさ、ここでは泣かないでよ。
これじゃまるで、別れ話をこじらせて、僕が泣かせてるみたいじゃないか」
その言葉に、思わず笑みがこぼれる。
泣き出してしまいそうだった私の涙も、なんとか踏みとどまった。
「ちょっとは、思い出した?」
「はい」
目が覚めた病院、そこからの、過酷なリハビリの日々、
小学校と中学校には、まともに通えなかった。
「急ぐ必要はないから、これからちょっとずつ、思い出していこう」
将樹さんは、にっこりと微笑む。
「君自身のことも、颯太のことも」
「はい」
「よかった。ほら、冷めないうちに食べて! それから、颯太に会いに行こう」
また涙ぐみそうになった私に、将樹さんは笑顔でオムライスを口にした。
「でもさ、それでも、颯太のことは、覚えていたんだね」
「申し訳ないくらい、ほんのちょっとですけどね」
「それだけでも、颯太はうれしいと思うよ」
食事をすませてから、私たちは店を出た。
途中で見かけた花屋さんに、立ち寄る。
「花を買っていこう」
色とりどりの、にぎやかな店内。
その中でも、将樹さんは、特に華やかな花を選ぶ。
「菊、じゃ、ないんですね」
そう言ったら、将樹さんは笑った。
「ま、菊でもいいんだけど、どうせなら、かわいい花がいいかなって思って。
奈々ちゃんは、どんな花が好き?」
私が選んだ花束を、将樹さんは店員に渡した。
「あ、お金、私も出します」
「いや、いいよ。これくらいはしとかないと、後で怒られそうだからね」
将樹さんは、なぜか照れたように笑った。
散々茶化されたけど、私の本心は、それどころではなかった。
颯太くんのことが、どうしても思い出せない。
彼らは兄弟で、将樹さんはお兄さんの方で、
私が好きだったのは、颯太くんの方。
実家の近くに住んでて、母親同士も仲良くて、それで……、
小学校へは、一緒に通った?
放課後に、なにして遊んだ?
子供の頃の、初恋の思い出なんて、そんなに記憶に残ってないもんだと言われれば、
そうなのかもしれない。
だけど、私には、気がつけば、小学校の思い出が、何一つ残っていない。
クラスのことも、教室のことも。
仲のよかった友達は?
担任の先生は、どんな人だった?
覚えているのは、小学校の校舎の外観だけ。
それでは、思い出とは言えない。
「待った?」
待ち合わせ場所に現れた将樹さんは、
紺色のパンツに合わせた、ジャケットにボーダーのTシャツ姿。
先に来ていた私に挨拶を済ませた後で、片袖を持ちあげて、腕時計を確認する。
「うん、ちょうどいい時間だね」
私たちは、並んで歩き出した。
「弟さんは、颯太くんは、今、どうしてるんですか?」
その質問に、将樹さんは笑って、ちゃんと答えてくれない。
「なに、思い出せないの?」
その台詞に、『はい、そうなんです』とは、
さすがに失礼すぎて、答えられない。
「いえ、どうしてるのかなって、ほら、顔を合わさなくなってから、
ずいぶん経ってるじゃないですか」
「どうして、顔を合わさなくなった?」
頭の芯がくらくらする。
脳内に残されているはすの、子供の頃の記憶を、必死で辿る。
「えっと、引っ越したから」
「ふふ、正解」
将樹さんは、私を試すかのような質問を、なかなかやめてくれない。
将樹さんの案内で、オープンテラスの、お店に入った。
「ここで、ランチを食べていこう」
五月の風が吹く。
先に出されたアイスティーのグラスの中で、氷がカランと音をたてた。
「で? 他に覚えてることは?」
将樹さんは、ほおづえをついて、私を問い詰める。
「えっと、小学校の時は、同じクラスでした」
「本当に?」
「多分」
「それは、僕も覚えてないな」
将樹さんは、ストローで氷をかき混ぜてから、一口飲んだ。
「他には?」
そう続けざまに聞かれても、私には何一つ記憶がなくて、
もうそれ以上答えられない。
黙ってうつむいた私に、将樹さんは言った。
「初恋の人だっていうのに、覚えられてないなんて、弟もかわいそうだね」
「そ、そんなことはないです!」
「じゃあ、言ってみて」
どれだけ記憶を辿っても、どうしても思い出せない。
将樹さんは、そんな私から、言葉が出てくるのを、じっと待っている。
「すいません、本当は、何にも覚えてないんです」
「やっぱり、そうなんだ」
「覚えてないっていうか、思い出せないんです」
食事が運ばれてきた。黄色い卵のオムライス。
将樹さんは、大きなスプーンを手に取った。
「食べながら、話そう」
一さじすくって、口に入れる。
それを飲み込んでから、将樹さんは言った。
「僕の知っていることから、教えてあげる」
私は、目の前に置かれたオムライスを見ながら、
仕方なくスプーンを手に取る。
「将樹さんの、知ってることですか?」
「うん、そうしたら、君も、何か思い出すかもしれないでしょ?」
「私に、記憶がないことを、ご存じだったんですか?」
将樹さんは、それには答えずに、オムライスを口にした。
「その日、僕は、サッカーの試合があって、参加していなかった。
君と颯太は、他の子供会のメンバーと一緒に、バスに乗ってスケートリンクに出かけた」
小学五年生の冬、私たちは、マイクロバスに乗って、
地元のスケートリンクに向かっていた。
楽しみにしていた、毎年の恒例行事。そこで、事故にあった。
よみがえる記憶、乗っていたバスが、急ハンドルを切った。
そのとたんに、突然ふりかかった全身の痛みと、響き渡る悲鳴、
血だらけの友達と、動かなくなった男の子。
立ち昇る炎と煙に、私は息が出来なくなって、そのまま意識を失った。
「君は、一ヶ月近く入院して、僕たちの一家は、その間に引っ越してしまった。
事故の有無に関係なく、すでに予定されていた引っ越しだったからね」
手にしたスプーンが、こぼれ落ちる。
私はその日以来、それまでの記憶を失った。
それ以降も、高校生になるまで、ほとんど記憶がない。
無意識に、みかん箱の写真と一緒に、心の奥に押しとどめて、
ずっと封印されていたのだ。
「大きな怪我をしたって聞いたけど、無事でよかった。
記憶を無くしていることも、母親を通じて知ってはいたけど、
まさか、こんなかたちで再会出来るなんて、思いもしなかった」
震える手を、将樹さんの大きな手が、包み込む。
「頼むからさ、ここでは泣かないでよ。
これじゃまるで、別れ話をこじらせて、僕が泣かせてるみたいじゃないか」
その言葉に、思わず笑みがこぼれる。
泣き出してしまいそうだった私の涙も、なんとか踏みとどまった。
「ちょっとは、思い出した?」
「はい」
目が覚めた病院、そこからの、過酷なリハビリの日々、
小学校と中学校には、まともに通えなかった。
「急ぐ必要はないから、これからちょっとずつ、思い出していこう」
将樹さんは、にっこりと微笑む。
「君自身のことも、颯太のことも」
「はい」
「よかった。ほら、冷めないうちに食べて! それから、颯太に会いに行こう」
また涙ぐみそうになった私に、将樹さんは笑顔でオムライスを口にした。
「でもさ、それでも、颯太のことは、覚えていたんだね」
「申し訳ないくらい、ほんのちょっとですけどね」
「それだけでも、颯太はうれしいと思うよ」
食事をすませてから、私たちは店を出た。
途中で見かけた花屋さんに、立ち寄る。
「花を買っていこう」
色とりどりの、にぎやかな店内。
その中でも、将樹さんは、特に華やかな花を選ぶ。
「菊、じゃ、ないんですね」
そう言ったら、将樹さんは笑った。
「ま、菊でもいいんだけど、どうせなら、かわいい花がいいかなって思って。
奈々ちゃんは、どんな花が好き?」
私が選んだ花束を、将樹さんは店員に渡した。
「あ、お金、私も出します」
「いや、いいよ。これくらいはしとかないと、後で怒られそうだからね」
将樹さんは、なぜか照れたように笑った。