【短編】鬼神の森

 
 ……これでは、逃げられぬ。

「われを置いて、お前さまだけ、逃げればいい」

 サヨが、獣の妻ならば。

 彼女が例えヒトであったとしても、村人に害されることだろう。

 しかし、サヨは。

 獣の足でまといにだけは、なりたくなかったのだ。

 サヨは、ここで一人、命を捨てる覚悟であったのに。

 獣は、サヨと行李とを一緒くたに抱えあげると、闇夜に飛び出した。

 村人は、祠にサヨたちの姿が無いと知るや、犬を使って、追い立てる。

 犬の気配は、あっという間に近づいた。

「お前さま……
……お前さま」

 人語を片言にしゃべり、いつもサヨの言うことを聞く獣だったのだが。

 このときばかりは、自分を置いて行けと言うサヨの頼みを、決して聞かなかった。

 まさに、鬼神の名に恥じぬ、凄まじい形相で。

 サヨを抱きしめ、暗い夜道をひた走る。

 速い。

 速い。

 鬼神の強い足は、大地を蹴って、まるで、黒い風のように疾(と)く駆けた。

 ……だが、しかし。

 身軽な犬達に敵うべくもなく。

 獣は、とうとう崖っぷちまで追い詰められ……。

 そして。




 ……ずがーん




 静かだった森に、火縄銃の音が木霊した。

 獣は。

 サヨを庇って丸めた背中に、弾を受けて。

 そのまま二人は。

 深い谷底に落ちて行った。