私の働くパン屋は、街の外れのひっそりとした小さな店だ。店内に入り十歩あるけばもう一番奥まできてしまうぐらい。建物もたいがい古くて、まるでトム・ソーヤが木の上に作ったツリーハウスみたいな外観だ。

 その店は、太陽から生まれたふかふかしたブリオッシュのような奥さんと、かちかちだけど中はふかふかなフランスパンのようなご主人が経営している。

 そしてパン職人としてはど素人の私が半年前に転がり込み、毎日店を開いていた。




 私がここへ転がり込んだのは、ご主人が作るクロワッサンとの衝撃的な出会いがきっかけだった。ある日たまたま立ち寄ったこの店のクロワッサンに心を奪われたのだ。

 こんがりと焼きあがったそれは、外側の層一枚がぱりぱりと香ばしく中はふうわり。生地に練りこまれたバターがほのかに香り、口に入れると甘い味がした。しかしそれはバターで重くはなっておらず、舌の上でその幾重にもなった生地がハラハラとほどける様に消えてゆく。

 見た目は普通のクロワッサンだったのに、何かとても儚いものを口に入れた気分だった。

その日のうちに私は、今までなんとなく勤めていた会社を辞め、求人募集なんてしていなかったのに半ば強引にこの店で働き始めた。


 『習うより慣れろ』という昔気質のご主人の指導で、私は半年経つうちに見様見まねではあるが食パンや他の菓子パンはある程度焼けるようになった。しかし、最大の難関であり憧れでもある、あのクロワッサンは未だに上手く焼けない。

 もともと、パンの中でも難しい部類のものなのだそうだ。だから、そうそう簡単には出来ないのはわかっている。それでも毎日挑戦するのに、一度も満足な出来のクロワッサンにはならなかった。