「それよりもさ、“加野さん” って呼び方、やめない?やっぱりソワソワする」
加野せんぱいは笑う時、ちょっと困ったような顔をする。その顔を見ると、ホッとする。
「だって、一応仕事ですし。第一、大学生になっても “加野先輩” って呼んでいるの、わたしくらいしかいなくて恥ずかしいです」
大学生になったら、中学や高校の時みたいに、◯◯先輩と呼ぶ人たちがあまりいなくてびっくりしてしまった。わたしはクセで、“加野せんぱい” と呼ぶようになったけど、友達やせんぱいのお友達からは少し笑われた。
学校によって、人によって色々あるんだろうけど。
だけど、染み付いてしまったもんは仕方ない。だから、わたしは今でも、せんぱいのことは “加野せんぱい” と呼んでいる。
バイト時間以外の時はね。
「そう? 俺は、凰香ちゃんに “加野せんぱい” って呼ばれるの、けっこー好きだよ」
パキ、と、栄養ドリンクの蓋を鳴らしながら、加野せんぱいは笑った。
…そーいうこと、サラッと言うのは加野せんぱいだからなのだろうか。それとも、男の人はみんなそう言うのかな。特に歳上の人は。
「せんぱい、それもう何十回も聞いた気がします」
「はは、まじで?そんな言ってねーだろ」
…ううん、けっこー言ってるよ。頻繁に言ってくれてるよ。だからわたしは、いつもいつも、“加野さん” って、わざと呼んじゃうんだもん。
…こんなの、せんぱいには言えないけど。
せんぱいの喉を流れていく栄養ドリンク。ごくんと飲み込むたびに、大きく上下するのど仏。わたしには、ないもの。
その自然なこげ茶の髪も、左目のすぐ下にある小さなほくろも、わたしにはない。
そんな、“わたしにはないもの” に、この1年間ものすごく惹かれていったように思う。
…加野せんぱいは、とってもかっこいい。
わたしは、このかっこよくて、やさしくて、面倒見がいい加野 朔太朗せんぱいのことが、わりと初めから、好きだった。



