四面楚歌-悲運の妃-




故・黄宋帝が即位された宋暦元年に、13歳だった私は充容として、陛下即位と同時に後宮入りしました。

すでに陛下の寵愛を得ていたのが皇太子時代からの2人の妃、19であった当時賢妃の呂貴妃様と、17であった当時昭儀の稚皇太后様。


呂貴妃様にはその時すでに、陛下との間に2歳になられる姫君、杏庸公主(アンヨウコウシュ)様がおられ、2人目をご懐妊中。

同じく稚皇太后様も初の御子をご懐妊中でした。


その頃は上流貴族出身であられる呂貴妃様は、同じ寵愛を頂いていたとはいえ、中流貴族出身で昭儀の稚皇太后様を見下し相手にしてなく、争っている様子もありませんでした。


産み月が早かったのは、呂貴妃様の方だったのですが、産み月まで後三月という頃、呂貴妃様は月足らずで産気付かれたのです。


お生まれたしたのは皇子だったのですが、生まれた時にはすでに亡くなっていました。


念願の皇子であったのに、死して生まれた為、呂貴妃様は嘆かれたそうです。


それから四月後、稚皇太后様は元気な皇子を出産なさいました。

その皇子が稜稟公子様…そう、現皇帝の黄秦帝です。

皇子誕生により、稚皇太后様は昭儀から淑妃になられました。


これにより、稚皇太后様と呂貴妃様は立場が逆転したのです。