(使命でもなんでもやってやる。俺はティエンと交わした約束を守りたい――ただっ、それだけだっ!)


 躊躇いはなかった。
 ユンジェは右手で懐剣を引き抜くと、体を反転させ、振り下ろされた柳葉刀を受け止める。小さな刃は受け止めた刃渡りの広い刀を真っ二つに折った。

「まさかっ……あの小僧、王族でもない身分でありながら、麟ノ懐剣を抜いたのか!」

 タオシュンの驚愕は、天に轟く雷鳴によって掻き消される。
 灰色の雲は黒雲に変わり、滝のように雨粒が落ちた。稲光が絶え間なく続く。やがてそれは懐剣に宿り、眩しいばかりの光を宿す。

 麒麟が天から降りてくる。

 直感したユンジェは、鞘を銜えたまま懐剣に柄を逆手に持つと、怯んでいる輩達の包囲網を掻い潜った。

 誰もユンジェを止められなかった。天から降りてきた麒麟が隣を走って、ユンジェを守る盾となってくれる。

 しかし輩達の目には見えないのか、吹きすさぶ風に目を瞑るばかり。こんなにも威風堂々とした獣が地上を翔けているというのに、なんとも不思議な話だ。

(この熊野郎。ティエンから離れろ!)

 軽い身のこなしで、タオシュンの懐に入る。

 負った傷など念頭にもない。
 両手で懐剣を持ち、ティエンを押さえている汚い手に刃を突き刺す。

 頭の中は彼を守ることでいっぱいであった。吉凶禍福の運命を背負いし天の子を守護する。


 それが、麒麟に与えられたユンジェの使命なのだから。


 傍らにいる麒麟に視線を投げる。
 神々しい威光を放つ、それはユンジェの意思を汲み、ティエンに寄り添った。彼は麒麟が見えているのだろう。戸惑ったように、双方を見やっている。


「いまだ。ピンイン王子をお守りしろ! お前ら、回れ、回るんだ!」


 と、その時だ。

 大勢いる輩の内、数人が味方に武器を向け始めた。
 ユンジェは驚いてしまう。一体、何が起きているのか分からない。敵が身内に切りかかっているだなんて。

「くっ、忌々しい。我が兵に謀反人の間諜(かんちょう)がまぎれていたか。殺せ、裏切者は残らず殺せ!」

 タオシュンの怒声が空気を震わせる。どうやら、あれらはティエンの味方のようだ。

「このっ、小僧めが!」

 度重なる事態に激昂したタオシュンが、ユンジェに怒りの矛先を向け、大刀(だいとう)で薙いでくる。

 ティエンを巻き込まないよう、切り立った断崖の吊り橋付近まで逃げた。十二分に距離を取ったところで、大振りに向かってくる大刀を紙一重に避ける。

 そして持ち手に飛び乗り、顔面目掛けて踏みつけた。
 よろめいたところで懐剣を構え、鎧に覆われていない首にそれを突き刺す。返り血が右頬に付着した。

 タオシュンが痛みに叫ぶ。天を裂くような悲鳴まで、熊のようであった。

(ティエンは無事か)

 巨体が両膝を崩し、音を立てて倒れる。

 それに目もくれず、地面に着地したユンジェは、急いでティエンの方を見る。
 彼は謀反人の間諜と呼ばれていた者達に囲まれ、守られているようであった。

 ホッと胸を撫で下ろし、銜えていた鞘を手に持ち、ゆっくりと刃を収める。やはり彼らはティエンの味方のようだ。

「よくもっ、小僧許さぬぞォオ!」

 背筋が凍る。振り返れば、倒れた筈の巨体が起き上がっていた。
 急所の首を刺したはずなのに、タオシュンは血しぶきを上げながら、大刀を大振りに回した。

(こいつ、化け物かよっ)

 懐剣で鞘を受け止めるが、馬鹿力に負け、体が木の葉のように空中を舞った。

(しまった。この下には急流の激しい川が)

 雨の季節で川は増水している。急流は濁流となって、より激しさを増している。なにより、この高さから落ちて、タダで済むはずがない。


「ピンイン王子!」


 誰かが素っ頓狂な声を上げた。焦る声や、制する声も聞こえる。


(まさか……違っていてくれよ)