安普請で、立て付けも悪く、玄関というには安物過ぎる野ざらしで痛みの進んだ扉の鍵を開けた俺は、真っ暗な居間の電気を手探りでつけると、玄関の扉ほどではないが、痛みが目に付く安物の革靴を脱ぎ、部屋に上がった。
「さや、ただいま」
声をかけても返事がないという事は、さやは続きの間で寝ているのだろう。
昔からよく寝るさやだったが、災害の後、激しい不眠症になり太陽の出ている時間はほとんど寝て過ごし、夜は一睡もしないという時期があり、段々に睡眠時間は安定してきていたが、例の爆弾発言の後、今までよりもかなり睡眠時間が長くなっている気がする。
さやの場合、当然、災害時には全身を強打したわけで、記憶障害も頭を強打したことが原因とも、心理的なことが原因とも言われているが、どちらにせよ睡眠時間が著しく長くなるというのは、病状に転機が訪れている可能性がある症状と言われているので、この睡眠時間が長くなる現象が続くのであれば、またさやをあちこちの病院に連れて行って検査をしてもらわなくてはいけない。
「さや、ただいま」
俺は『何か着て寝てますように』と祈りながら、狭い居間の続きの間への襖を開けた。
幸いにも、さやは部屋着を着て眠っていた。
「さや、さや、ただいま」
俺は携帯を片手に握りしめたまま寝落ちしているさやの肩をゆすった。しかし、かなり深く眠ってしまっているらしいさやは、目覚める気配がない。
仕方ないので、俺はさやを起こすのをあきらめ、台所の電気ケトルでお湯をわかしながら、さやの寝ている続き間の奥に取り付けたカーテンを引いて手早く普段着に着替えた。
もともと、このカーテンは年頃のさやが着替えるのにつけたものだが、本人は一切頓着せず、いつでもどこでも着替えるので、仕方なく俺がカーテンの奥に隠れて着替える羽目になっている。まあ、普通の妹なら兄の裸や着替えを見せられるのはセクハラだと言うだろうから、当然の事なのかもしれないが、さやに限って言えば、わざわざカーテンの奥で着替えているのに、話しかけるためにカーテンの中に入ってきたり、敢えてカーテンを開けて『何してるの?』と、問いかけたりするあたり、俺の心臓の方がドキドキして困ることの方が多い。
そういう意味では、おとなしくさやが寝ている時に着替えられるのは、俺としては心の平安につながるのだが、それにしてもさやの奴、いったい何時間寝ているんだろう?
とりあえず、さやの好きな麦茶を煎れ、俺は再びさやを起こしに戻った。
「さや、帰ったぞ。オニオングラタン食べに行くんだろ?」
さっきよりも強く力を込めて体をゆすると、少しだけ反応があったが、それでも目覚めそうになかったので、俺は仕方なく居間に置いてあるカバンの中から携帯を取り出してさやの携帯を鳴らした。
鳴らすこと数十回、近所から騒音でクレームされそうな回数だと思っていると、さやがもぞもぞと動くのが見えた。
「はい」
『はい』
さやの声が部屋の中と電話の中で微妙にズレて聞こえる。
「さや、ただいま」
俺は電話を切ってさやに声をかけた。
まさに、ゴロリンという形容がぴったりな転がり方でさやはころがると、居間に座る俺の方を向いたが、まだ横になったままだ。
「お兄ちゃん、いつ帰って来たの?」
ちゃぶ台の上のカップを見つめながら、さやはぼんやりとした目つきで俺を見つめている。
このセリフを聞くたびに、俺はもっとセキュリティのしっかりした部屋に引っ越すべきかもしれないと悩むのだが、あの立て付けの悪い扉を開ける音も、何も聞こえてないとしたら、不用心極まりなさ過ぎる。しかし、どう見ても倒れそうなこのアパートに泥棒に入るもの好きもいないかなと、未だにこの部屋に住んでいるのだが、さすがに、さやがあいつと交際を始めるのなら、兄と二人暮らし、しかも同じ部屋で寝ているというのは、まずいかもしれない。
「よく寝てるから、先にお茶入れといた。飲むだろ?」
俺の言葉に、さやは目をこすりながらゆっくりと、そして大きな欠伸をしながら上体を起こした。
「いま、何時?」
さっきまでむき出しだった白い太ももが、ペタンと布団の上に座ったことにより、さやのダブダブのシャツの裾に隠れる。
「何時から寝てたんだ? もうすぐ九時半だぞ」
俺は言いながら、さやのカップを差し出した。
「ありがとう」
カップを受け取ったさやは、いつものように麦茶の香りを胸いっぱい吸い込んだ。
「お兄ちゃんから電話貰って、あと覚えてない」
「具合、悪いのか?」
俺の問いに、さやは考える素振りをした。
「たぶん違うと思う」
さやの場合、何を聞いても他人事だ。
「おなか減ってないのか?」
「たぶん、へってる」
「じゃあ、行くか?」
「うん」
そう答えて立ち上がったさやの腕を俺は掴んだ。
「さや、着替えが先だ」
さやは『別にこのままでいい』と言わんばかりの表情を浮かべながら、しぶしぶ枕元に昨夜俺が置いた服に着替え始めた。
いつももの早業でさやが全裸になる直前、俺は襖を閉めて背を向けた。
本当に油断も隙もない。『これじゃあ、絶対にお泊りのお出かけ許可なんて出せないぞ!』と考えてから、俺は再び頭を抱えた。
お泊り外泊は、既にそーゆー関係になってるからか、それとも、そーゆー関係に進展するためにお泊りの予定を立てるのか? どっちだ? いや、どっちもありだろう。とにかく、禁止だ禁止。俺の可愛いさやと結婚前にそんな関係になろうとするような男は近づけるもんか!
ここに至って、俺は自分の思考が兄から完全に父親にすり替わっていることにため息をついた。そう、俺は兄であって父親じゃない。既に成人しているさやにとって、俺はあくまでも唯一の親族として意見を言うことはできても、さやが本気で決断したことに反対したり、拒否権を発動することはできない。それがどんな重大な事であろうと。
「・・・・・・って言ったっけ?」
俺の思考をさやの声が遮る。
「ごめん、なんか言ったか?」
俺は、さやが服を着ているのかも確認しないまま、思わずさやを振り返った。
「思い出せないの。あのこの名前、なんて言ったっけ?」
さやは言いながら、家族写真を指差していた。
「隣の犬か?」
俺の返事に、さやは酷く気分を害したようだった。
「あ、ああ、えっと、あれは確かシベリアンハスキーだったよな。確か、そりを引く犬だよな」
俺は記憶を頼りに返事をするが、さやは不機嫌なままだ。
「それは、名前じゃないよ」
さやは、ただ一言返事をした。
「あ、アラスカンマラミュートか?」
思いつく名前を口にするが、さやは頭を横に振る。
「あの子の名前を思い出したいの。あの子が、シベリアンハスキーで、目の色が左右で違うことは、ちゃんと覚えてるの」
そこまで言われ、俺はあの犬の名前を聞いたことがあっただろうかと思案する。たぶん、きっと、さやは何度もあの犬の事を俺に話したんだと思う。でも、あの頃の俺には、正直言って隣の家の犬の名前なんてどうだってよかった。両親が亡くなり、まだ高校生の妹と二人、頼れる親戚もなく、これからどうやって暮らしていこうか、俺に親代わりができるだろうかと、あの頃はそればかりを考えていた。
そう、そうして考えた末、俺は妹を嫁がせるまで自分が結婚する事はないと決断し、結婚を前提に付き合っていた恋人と別れた。別に、その事を後悔したことはないが、あの日、さやを探して訪ねまわった遺体安置所で彼女の変わり果てた姿を目にしたとき、俺はさやを見つけるまで絶対に泣かないと決めていたのに、彼女の棺の前で号泣した。それは、彼女の指に結婚指輪がなかったからだ。
結婚して、さやと同居し、実の姉とまではいかないが、さやを見守る俺と一緒に、さやの幸せを見守っていきたいと言ってくれた彼女に、俺は彼女の存在が重すぎると一方的に別れを告げ、彼女を切り捨てた。それなのに、彼女は立ち去ろうとする俺の背中にしがみつき『妹さんが結婚するまで、待っているから』と泣きながら言ってくれたのに、俺は信じていなかった。でも、指輪をしていない彼女の遺体に対面したとき、俺は涙を止めることができなかった。自分勝手に別れを告げた俺自身が、まだ、彼女の事を深く愛していたからだ。
「さや、ただいま」
声をかけても返事がないという事は、さやは続きの間で寝ているのだろう。
昔からよく寝るさやだったが、災害の後、激しい不眠症になり太陽の出ている時間はほとんど寝て過ごし、夜は一睡もしないという時期があり、段々に睡眠時間は安定してきていたが、例の爆弾発言の後、今までよりもかなり睡眠時間が長くなっている気がする。
さやの場合、当然、災害時には全身を強打したわけで、記憶障害も頭を強打したことが原因とも、心理的なことが原因とも言われているが、どちらにせよ睡眠時間が著しく長くなるというのは、病状に転機が訪れている可能性がある症状と言われているので、この睡眠時間が長くなる現象が続くのであれば、またさやをあちこちの病院に連れて行って検査をしてもらわなくてはいけない。
「さや、ただいま」
俺は『何か着て寝てますように』と祈りながら、狭い居間の続きの間への襖を開けた。
幸いにも、さやは部屋着を着て眠っていた。
「さや、さや、ただいま」
俺は携帯を片手に握りしめたまま寝落ちしているさやの肩をゆすった。しかし、かなり深く眠ってしまっているらしいさやは、目覚める気配がない。
仕方ないので、俺はさやを起こすのをあきらめ、台所の電気ケトルでお湯をわかしながら、さやの寝ている続き間の奥に取り付けたカーテンを引いて手早く普段着に着替えた。
もともと、このカーテンは年頃のさやが着替えるのにつけたものだが、本人は一切頓着せず、いつでもどこでも着替えるので、仕方なく俺がカーテンの奥に隠れて着替える羽目になっている。まあ、普通の妹なら兄の裸や着替えを見せられるのはセクハラだと言うだろうから、当然の事なのかもしれないが、さやに限って言えば、わざわざカーテンの奥で着替えているのに、話しかけるためにカーテンの中に入ってきたり、敢えてカーテンを開けて『何してるの?』と、問いかけたりするあたり、俺の心臓の方がドキドキして困ることの方が多い。
そういう意味では、おとなしくさやが寝ている時に着替えられるのは、俺としては心の平安につながるのだが、それにしてもさやの奴、いったい何時間寝ているんだろう?
とりあえず、さやの好きな麦茶を煎れ、俺は再びさやを起こしに戻った。
「さや、帰ったぞ。オニオングラタン食べに行くんだろ?」
さっきよりも強く力を込めて体をゆすると、少しだけ反応があったが、それでも目覚めそうになかったので、俺は仕方なく居間に置いてあるカバンの中から携帯を取り出してさやの携帯を鳴らした。
鳴らすこと数十回、近所から騒音でクレームされそうな回数だと思っていると、さやがもぞもぞと動くのが見えた。
「はい」
『はい』
さやの声が部屋の中と電話の中で微妙にズレて聞こえる。
「さや、ただいま」
俺は電話を切ってさやに声をかけた。
まさに、ゴロリンという形容がぴったりな転がり方でさやはころがると、居間に座る俺の方を向いたが、まだ横になったままだ。
「お兄ちゃん、いつ帰って来たの?」
ちゃぶ台の上のカップを見つめながら、さやはぼんやりとした目つきで俺を見つめている。
このセリフを聞くたびに、俺はもっとセキュリティのしっかりした部屋に引っ越すべきかもしれないと悩むのだが、あの立て付けの悪い扉を開ける音も、何も聞こえてないとしたら、不用心極まりなさ過ぎる。しかし、どう見ても倒れそうなこのアパートに泥棒に入るもの好きもいないかなと、未だにこの部屋に住んでいるのだが、さすがに、さやがあいつと交際を始めるのなら、兄と二人暮らし、しかも同じ部屋で寝ているというのは、まずいかもしれない。
「よく寝てるから、先にお茶入れといた。飲むだろ?」
俺の言葉に、さやは目をこすりながらゆっくりと、そして大きな欠伸をしながら上体を起こした。
「いま、何時?」
さっきまでむき出しだった白い太ももが、ペタンと布団の上に座ったことにより、さやのダブダブのシャツの裾に隠れる。
「何時から寝てたんだ? もうすぐ九時半だぞ」
俺は言いながら、さやのカップを差し出した。
「ありがとう」
カップを受け取ったさやは、いつものように麦茶の香りを胸いっぱい吸い込んだ。
「お兄ちゃんから電話貰って、あと覚えてない」
「具合、悪いのか?」
俺の問いに、さやは考える素振りをした。
「たぶん違うと思う」
さやの場合、何を聞いても他人事だ。
「おなか減ってないのか?」
「たぶん、へってる」
「じゃあ、行くか?」
「うん」
そう答えて立ち上がったさやの腕を俺は掴んだ。
「さや、着替えが先だ」
さやは『別にこのままでいい』と言わんばかりの表情を浮かべながら、しぶしぶ枕元に昨夜俺が置いた服に着替え始めた。
いつももの早業でさやが全裸になる直前、俺は襖を閉めて背を向けた。
本当に油断も隙もない。『これじゃあ、絶対にお泊りのお出かけ許可なんて出せないぞ!』と考えてから、俺は再び頭を抱えた。
お泊り外泊は、既にそーゆー関係になってるからか、それとも、そーゆー関係に進展するためにお泊りの予定を立てるのか? どっちだ? いや、どっちもありだろう。とにかく、禁止だ禁止。俺の可愛いさやと結婚前にそんな関係になろうとするような男は近づけるもんか!
ここに至って、俺は自分の思考が兄から完全に父親にすり替わっていることにため息をついた。そう、俺は兄であって父親じゃない。既に成人しているさやにとって、俺はあくまでも唯一の親族として意見を言うことはできても、さやが本気で決断したことに反対したり、拒否権を発動することはできない。それがどんな重大な事であろうと。
「・・・・・・って言ったっけ?」
俺の思考をさやの声が遮る。
「ごめん、なんか言ったか?」
俺は、さやが服を着ているのかも確認しないまま、思わずさやを振り返った。
「思い出せないの。あのこの名前、なんて言ったっけ?」
さやは言いながら、家族写真を指差していた。
「隣の犬か?」
俺の返事に、さやは酷く気分を害したようだった。
「あ、ああ、えっと、あれは確かシベリアンハスキーだったよな。確か、そりを引く犬だよな」
俺は記憶を頼りに返事をするが、さやは不機嫌なままだ。
「それは、名前じゃないよ」
さやは、ただ一言返事をした。
「あ、アラスカンマラミュートか?」
思いつく名前を口にするが、さやは頭を横に振る。
「あの子の名前を思い出したいの。あの子が、シベリアンハスキーで、目の色が左右で違うことは、ちゃんと覚えてるの」
そこまで言われ、俺はあの犬の名前を聞いたことがあっただろうかと思案する。たぶん、きっと、さやは何度もあの犬の事を俺に話したんだと思う。でも、あの頃の俺には、正直言って隣の家の犬の名前なんてどうだってよかった。両親が亡くなり、まだ高校生の妹と二人、頼れる親戚もなく、これからどうやって暮らしていこうか、俺に親代わりができるだろうかと、あの頃はそればかりを考えていた。
そう、そうして考えた末、俺は妹を嫁がせるまで自分が結婚する事はないと決断し、結婚を前提に付き合っていた恋人と別れた。別に、その事を後悔したことはないが、あの日、さやを探して訪ねまわった遺体安置所で彼女の変わり果てた姿を目にしたとき、俺はさやを見つけるまで絶対に泣かないと決めていたのに、彼女の棺の前で号泣した。それは、彼女の指に結婚指輪がなかったからだ。
結婚して、さやと同居し、実の姉とまではいかないが、さやを見守る俺と一緒に、さやの幸せを見守っていきたいと言ってくれた彼女に、俺は彼女の存在が重すぎると一方的に別れを告げ、彼女を切り捨てた。それなのに、彼女は立ち去ろうとする俺の背中にしがみつき『妹さんが結婚するまで、待っているから』と泣きながら言ってくれたのに、俺は信じていなかった。でも、指輪をしていない彼女の遺体に対面したとき、俺は涙を止めることができなかった。自分勝手に別れを告げた俺自身が、まだ、彼女の事を深く愛していたからだ。



