すぐに通報し、ほどなくしてやって来た救急隊員。
蘇生を試みることもなく、黙って首を振る。
《自分のことを忘れるのに痛みはない。
だけど、愛する人を忘れてしまうのは耐えられない。》
寝室に置かれた遺書にはそう書かれていた。
読み終えた瞬間、今日の朝を思い出す。
嗚咽が聴こえて目を覚ますと、私に背中を向けて静かにむせび泣く妻の姿。
『磨妃、どうした?』
『私……昨日、まりちゃんに名前を訊いたのよ』
『…………』
私は、返してあげる言葉が見つからなかった。
記憶が抜け落ちている時の記憶を思い出すなんて、病の悪戯にしか思えない。
その苦悩を共有できない私は、神様を恨むしかなかった。
だが、嘆いてばかりもいられない。
プリンをきれいに半分残し、
「ママにあげるの!」
と笑っている娘を見ていたら、泣きたくても泣けなかった。
これからは私が守らなきゃいけない。この命に換えても。
男である私が、湧き溢れる母性を得た瞬間。
それでも、所せましと貼られた付箋を剥がしたときは、まるで心を削がれるような痛みが走った。
決意だけで何事もうまくいくほど甘くない。
家事全般がド素人の私。
男手ひとつで小さな娘を育てるのは、身の潔白を主張する被疑者を落とすよりもはるかに難しく、悪戦苦闘の日々。
妻への愛は変わらないが、妻のいない日常にも慣れていった。
今の私には、磨理子だけが生きがいといっても過言ではない。


