商業ビルの前でタクシーに乗り、課長は目的地を運転手に告げていた。
「…病院へ」
よく聞き取れなかったけど、病院って言ったのは聞こえた。
どういう事?
何で病院?
課長はさっきから無言のまま。
話しかけるなオーラが半端ないから、聞くに聞けない。
私は窓から流れる景色をボーっと眺めていた。

10分ほど走り、タクシーは大きな病院のエントランスで停まった。
私はこの病院に見覚えがあった。
決して忘れる事など出来ない。
司が運ばれた病院だったのだ。
「えっ、何で?」
私は震える唇を噛みしめながら、先に降りた課長に続き、ぐっと気持ちを奮い起たせてタクシーを降りた。
課長は病院の入口に向かって歩いている。
私はタクシーを降りた場所から一向に動けずにいる。
地面にくっついてしまったかのように、足が動かない。
課長は私に気づき、踵を返して、私の手を握った。
課長の手は温かい。
不思議と嫌な気持ちにならなかった。
課長の顔を見ると、課長は真剣な面持ちで私を見ている。
まるで「大丈夫」と言っているみたいに。

課長は無言のまま、私の手を繋いだまま、病院の中へと入って行く。
エレベーターに乗り、5階のフロアで降りた。
エレベーターの扉が開くと、正面の壁には「産婦人科」と書かれたプレートが掛かっている。
課長はナースステーションの横を進み、ガラス張りの部屋の前で立ち止まった。
ガラス張りの向こう側には、たくさんの赤ちゃんがブルーやピンクのベビーウェアを着て眠っている。
ぐずぐず泣いている赤ちゃんもいる。
私はそれまでの息苦しさを忘れて、ガラスに手をつき、しばらく見とれてしまっていた。

「あそこ」
課長が指差した先にいた赤ちゃんはピンクのベビーウェアを着ている。
周りの赤ちゃんとは一回り小さい気がする。
小さな、小さな手をギュッと握りしめて、スヤスヤとよく眠っている。
名前のプレートには「早乙女 琴」と書かれている。
プレートには産まれた時の体重が書かれている。
1,500グラム。
私はハッとした。
もしかして、課長の…?
「俺の姉貴の子供」
「はい?」
な、なんだ。
てっきり課長のお子さんかと思ったよ。
「お姉さんのお子さんですか?かわいいですね。ところで課長、どうしてここに? お見舞いでしたら、外で待ってましょうか?」
タクシーに乗ってからずっと疑問に思っていた事を尋ねた。
しかも偶然にもこの病院は司が運ばれた病院なのだ。
出来れば早く外に出たい。
でも、課長は私の手を繋いだまま、離そうとはしない。
「課長?」
思わず課長の顔を覗き込むと、一瞬表情が柔らかくなった。
それはほんの一瞬の事だったけど、その温かい表情につい見とれてしまった。

「姉貴の子供、未熟児で産まれたんだ。予定日より1ヶ月も早く産まれた。しばらくは保育器にいた。やっとこの部屋に移ったんだ。あんな小さくても一生懸命生きてる。赤ちゃんの生命力ってすごいよな」
「そうだったんですか…」
「姉貴とは7つ歳が離れてるんだ。俺が小学生の時に母さんが病気で死んでからは母親代わりみたいに面倒見てくれた。だから姉貴が幸せになるまでは、俺は自分の恋愛だとか結婚だとか、真面目に考えるつもりはなかった。それがこの前の疑問の答えだ」
この前の疑問の答え…あぁ、詩織との会話聞かれてたんだ。
私は俯いたまま、何も答えられなかった。
「さて、そろそろ出るか」
課長は私の手を繋いだまま、病院を後にした。