「江波くんは…私の名を覚えていては、くださらなかったのですね」
その弱々しい一言に、俺の胸は傷んだ。
とても息苦しい。
ここは山頂付近か、と思う程に空気が薄い。
ただその場に留まることが、辛かった。
しかし、これは自業自得だ。
自らで回避する他ない。
ああ、どうしようか。
動悸が激しい。
拳を太股の横できつく握り、意を決する。
「あの、もう一度、もう一度だけ…名前を教えてもらえませんか」
俺はそのまま、頭を下げた。
今は、周りの状況は何も見えていない。
心身共に緊張していた。
「…わかりました」
彼女の声がようやく聞こえ、恐る恐る頭を上げ、様子を窺う。
「本当に…もう一度だけ、ですよ。私は…萩原、と申します」
次は忘れないでくださいね、とまた彼女は優しく笑う。
ああ、忘れるものか。
忘れまいと、俺はその名を大事に口にした。
「萩原さん。…君の悩みを、俺に聞かせてください」
俺らしくもない気取った台詞に、彼女は照れ臭そうにしていた。
俺もそれにつられ、徐々に恥ずかしくなった。
「それでしたら、今日の放課後、江波くんはご都合よろしいですか?」
「は…よ、よろしいです!」
「ふふっ。よろしければ、お茶しませんか」
予知すらもしていなかった誘いを深海魚の君から受け、驚きつつも内心は舞い上がっていた。
たった今、幸福なのか、何なのかはわからないが、俺の気持ちは軽々と浮き漂っている。
今日ばかりは、するべきことも怠けてしまおう。
Scene 12 今一歩



