昨日、デイゴの木の下で、いろはをこの胸いっぱいに抱きとめてから。


急に怒って浜をあとにしたいろはの、悲しみに満ちたあの瞳を見てから。


言葉では説明できない、不思議な感情が全身を支配している。


「もー。翔琉が帰って来る前に掃除終わらせたいんですけど。母さんたちも夏祭り行くんですけど」


と母さんの苛立つ声を聞いているこの瞬間も、オレの腕の中目掛けて、なんのためらいもなく飛び込んで来たいろはの体の感触が鮮明に蘇る。


「そろそろ洗濯物乾いたかな。結弦、取り込んで来て」


とびこんできて……?


ああ、そうさ。


デイゴの木から飛んだ瞬間、羽根のように見えた白い両腕。


かろやかで儚いのに、想像より遥かに柔らかな体。


甘い香りのするさらさらの髪の毛。


「結弦! 聞いてるの? ……もうっ」


母さんに怒鳴られた今も、いろはの声と優しい波音が耳の奥で、それはもう鮮やかに蘇るのだ。


『結弦くん。うちな、疫病神さんなんやって』


なんでね?


いろはのやつ、なんであんな悲しい目をしよるか。


ゴン、と目の上で音がして、数秒遅れてから額に鈍痛が走って、ソファから飛び起きた。


「あっ……があぁぁぁーっ! えっ? なに? なにがおきた?」


額を手で押さえながら薄目を開けると、目の前に赤いエプロン姿の母さんが仁王立ちしていた。


「なにしよる! あがぁー」


「いつまでダラダラしてる気? いい加減にしなさいよ!」


「なに! なにで叩いてくれよった?」


くあっ、と噛み付いても、


「はいはい、退いて退いて」


と母さんに力ずくで押し退かされたオレは、額を押さえながらのそのそと食卓テーブルの椅子に移動した。


「ダラダラ、ダラダラ。1日中ダラダラダラダラ」


ダラダラを連呼しながら、母さんはソファにファブリーズを勢い良く撒き散らし始めた。