教室から真っ直ぐ私が向かうのは美術室だ。
別に今日がたまたま週一回の部活の日だということでもない。けど、達也が言ったことが間違っているわけでもない。
「おはよう」
美術室のドアを開けると黄昏をバックに筆をキャンパスにあてていた少女が一人、こちらを向かずにそう言った。
「おはよう、花」
普通の時間を考えれば、随分とずれたような挨拶だけど、私たちはこんにちわとかこんばんわを使わない。なんとなくおはようございますみたいな、他人行儀な堅いものを含んでいるからだ。
私たちの挨拶はおはよう。
そこには私たちの空間がある。
でも、それはあくまで個々の空間であり、時々交わるだけのこと。
それはさっきのおはようみたいな、ほんの一瞬のこと。
「美香はほとんど出来たんじゃなかったっけ?」
おはようから二十分くらい経った時、突然思い立ったように花が言った。実際、突然思ったことなのだろう。
「窓が見えづらくて」
私は正直に答えた。別に隠すほどのことではない。
「窓の外?」
「いや、窓が」
「なんで?」
「邪魔なの、彼が」
「彼?」
「名前は知らないから、彼」
クラスメートの名前を覚えていないことを明かすのも、花だったら苦にならない。
だいたいクラスも違うから、知られても大した害にはならないのだ。
そうやって、私の変わることのない毎日は今日も守られている。
「そっか」
花はそう言ったきりまた自分の空間に戻った。ほんの束の間の共有空間があっけなく崩れる。
だが、窓が見えづらいという言葉をすぐに理解してくれた花は、やはりさすがだと言わざるを得ない。


