その日、様子の違う晶人さんが仕事に行くと言った。いつ帰るか分からないからご飯はいらない、先に寝ててねと何でもない風にそう言ったけど、嫌な予感しかしなかった。

だから、私は晶人さんに行かないでと追いすがった。

このところの私は、晶人さんの帰りを待つ人形のような生活を送っていた。

人形には愛でてくれる誰かが必要なのだ。

「晶人さん」

「ごめんね」


「………嫌だって、そう言ったら?」


試すように、でもすがるように、そう言った私に、やはり困った顔でその男は、


「ごめんね」

と、そう同じ言葉を繰り返した。



ごめん、なんてそんなズルい言葉で片付けないで。

そう言いたかった。
でもね、口を開いたその瞬間気づいちゃった。


その男を真っ直ぐ見つめて、その表情に。


知ってた。
この男は私にいつも困ったような顔で笑う。


けど、それは。
それはいつも私がそうさせてるからなんだね。


急に出かかっていた言葉が喉に詰まった。行き場を無くしたそれは、ただただ息苦しい。


そんな私に追い討ちをかけるように、この男は私の頭を優しく叩く。


「行ってくる」


「………」

この言葉にならない行かないでを男は多分分かっている。分かっていて無視する。


そういうときのこの男は私の知る晶人さんじゃないことを、私は何となく気づいていた。

でも、私はその感覚を今日までずっと無視してきた。私の知らない晶人さんのことなんて、これっぽっちも知ろうと思わなかった。

だって、お互いの世界がお互いしかいないと仮定した関係だったから。


私には晶人さんしかいなくて。
晶人さんには私しかいない。


そんな世界を仮定にした関係だったんだから。そこに仮定を壊すような何かはお互い無視してきた。それが暗黙の了解だった。


私の世界にあった達也という特別な存在に晶人さんは気づいていたかもしれない。いや、デートのことも本当は知ってたのかもしれない。

でも、晶人さんがそれを許したのは、晶人さんも私以外に特別な人がいたからだ。

お互いに裏切ることで保っていたこの矛盾した関係。
それを私が壊した。

達也という存在を切ることで、私側の世界の仮定は真になった。

けど、晶人さんは仮定された二人だけの世界に私を残して出ていく。

ゲームオーバーだ。


私の求める世界は存在しない。


「言ってらっしゃい」


負け惜しみのように、すでに半分閉じかかったドアに向かってそう言った。


晶人さんは、やっぱり困ったように笑っただろうか。