「そもそも、俺でいいんですか」
かといって三日月紫苑は知らぬ存ぜぬを突き通している。
ここでお前なんかに代わりが務まるかとか一喝してくれたら話が早そうなのに、こういうときは突き放しにこない。いやむしろこの状況が突き放しているのか。

「……と、言いますと」
「いや、請け負うとか言ってたから仕事なんじゃないかと思って」
「ええ、仕事ですね」
「だったらほら、画風の違いというか、技術の違いというか……」
「あなたも紫苑と同じ芸術大学に通い日本画コースを選択していると存じますが」
「それはそうなんだけど……あー、もう単純に、三日月紫苑が仕事を請け負うってことはそれだけ奴は巧いんだろう、俺はそんな自信ないってこと」

まどろっこしい言い方は俺には向いていなかった。それにここではっきりさせておかないと、後から「こんなはずじゃなかった」とか言われてもつらい。

俺のことばに雲母は目を瞬かせた。しかしそれも一瞬で、なまめかしく小首を傾げる。
「紫苑と同じ大学試験を通過したことで、一定の技術はあると思いますが」
「それはそうだけど、四十人全員が同レベルだったらそれは奇跡だろう」
もちろん、三日月紫苑がどのあたりで、自分がどのあたりなのかはわからない。講義は開始したばかりだし、まだ彼の作品を見たこともない。

なるほど、と雲母はうなずいた。そしてゆっくりと立ち上がって、後ろにあるキャビネットを開ける。
「紫苑、一冊失礼しますよ」
未だ顔を背けている三日月紫苑に雲母が声をかけると「勝手にしろ」とのおことばが返ってきた。
その手にあるのはスケッチブックである。そんなに古くはなさそうだ。

「どうぞ、ご覧ください」
雲母はそう言って、ローテーブルにスケッチブックを置いた。流れからして三日月紫苑のものなのだろう。

単純に興味もあったし、俺は遠慮なくそれを手にする。

そして、絶句する。

一ページ目に描かれていたのは、ちょうどこの洋間から見える庭の景色だった。彩色はない。スケッチのつもりで描いたのだろうか。思わず視線を上下させて確認するが、疑いたくなるほどそのままである。

次のページをめくろうとして、ちらっと見えた絵がエッシャーの絵に似ていたので、そのまま閉じてテーブルへと置き直した。

同じ試験をパスしたとしても、三日月紫苑と自分では天と地以上の差がある。ありすぎる。
そしてどう考えてもこの代わりは無理である。筆致の正確さもさることながら、どうやったらあんな風に陰影を表現できるのだろう。

いかがですか、などと雲母は聞いてこなかった。聞かずともわかったに違いない。

三日月紫苑を見るが、彼はやっぱりこちらに反応しない。あの堂々たる自信は、きちんと技術が裏打ちされていた。

「すみませんがどう考えても無理です」
自分だって、芸大に行きたいと思っただけの、絵に対する熱意も努力もある。
だからといって自分が一番だと思ったこともない。芸大に入れば、俺よりすごい奴なんていくらでもいるんだろうなとも覚悟していたつもりだ。

しかし、格が違う。たぶん俺は、一生あの場所には辿りつけない。
今後、様々な講義で彼の絵を見ることになるだろう。そしてそのたびに、自分には到達できない領域があることを思い知るーーそう思ったら、身震いした。