三日月紫苑の屋敷に行ってから数日が経った。

いくつか講義も始まり、座学と実習と、毎週忙しくなりそうだった。

あれから幾度か三日月紫苑とは教室で顔をあわせたものの、会話をしたことは一度もない。ただ一度だけ、偶然席が隣になったことはあった。そのとき何げなしに見た彼のノートの字がとてもきれいで、すげえな、と思ったことはある。

あれから、百乃さんのことはどうなったのだろうとは、ずっと気にはなっていた。自分の記憶のことも。

今日は講義が午前だけの月曜日。そろそろ本気でアルバイトを探そうと、高野にある本屋にでも行こうと大階段を降りていた。カフェが併設された本屋だし、軽く飯でも食おうと思っていた。

「如月椿」
ちょうど踊り場にさしかかったとき、不意に三日月紫苑の声が聞こえた。振り返ると確かに黒ずくめの少年が立っていた。が、なぜか周りをきょろきょろ気にしている。

「……誰かに追われてるのか」
「そんなわけない。ただ、誰かに見られてはいないかと」
「なにか困るのか」
「面倒なことは嫌いだ」

どうしてそれが面倒になるのかがわからないけれど、大階段の端、たくさんのひとが通るとはいえ、だからこそ誰も気に留めないだろう。そもそも専攻が一緒なのだから、ここで接点があったところで問題ない。

「まあいい。今暇か」
「ああ、まあ予定はないな」
「百乃の件だ。伝えておく」

気になっていた名前が出てきて、頷く。

「見合いは無事にいったそうだ。来年には輿入れだと」
「おおー、そうか、それは良かった。安心した」
「家族総出で礼を伝えにきた。お前にも直接会いたかったそうだが」
「その話が聞けただけで充分だよ。それにしても良かった。だめだったらどうしようかと思ってた」

ほんとうの意味で肩の荷が下りて、天を仰いだ。今日もいい天気で、青空と白い雲のコントラストが深い。

「そんな自信なく仕事をしたのか」
三日月紫苑の声が怪訝な色に染まった。視線を落とし顔を見れば、呆れてため息をついている。

「いやだって、いくら俺たちと変わんないって聞いてても、個性だってあるだろ。それに、文化とか生活習慣のレベルはさすがにわかんないし」

痣ごと受け入れてこそ、なんて言ったけれど、妖狐の間では美こそ全て、だったかもしれない。それに人間のなかにだって、頭ではわかっていても心がそれを拒否する奴はいる。

「でもやっぱり、同じなんだな」

価値観なんて、ひとそれぞれだ。生きている世界が違うなら、それだって違うのだろう。

でも、百乃さんの見合い相手は彼女を受け入れた。俺は別に見合い相手でもなんでもなかったけれど、彼女の痣も彼女だと受け入れることができた。自分と同じ考えのやつが妖にもいるとわかったことが、収穫だ。

「……なんか、俺変なこと言ったか?」

気づくと三日月紫苑が笑っていた。笑うというよりも、口元が緩むのを必死に我慢して堪えているように見える。
「別に」
なるべく無愛想に言ってみました、みたいな一言が出てきて余計に不思議になる。