その恋、記憶にございませんっ!

 今のは……、と唯は視線で今駆け抜けていったものを追う。

 うん。
 やっぱりか。

 その後ろ姿は、かつて、陸上で記録を出したことがあると自慢していた翔太のものだった。

 足の速いのが災いしたようで、止まれず、そのまま信号を渡っていってしまったようだ。

 しめしめ、今のうち、と唯はアパートの階段を上がろうとする。

 追われて逃げているうちに、家を通り過ぎていたことに気づき、足を止めたのだ。

 だが、すぐに、

「唯っ!」
と腕をつかまれる。

 ひーっ。
 戻ってくるのも早いーっ! とつかんできた浅黒い手を見、固まっていると、一瞬、唯を怒鳴ろうとした翔太だったが、何故か、ふいに涙ぐんだ。

「唯……。
 可哀想に。

 こんなボロアパート、君には似合わないよ」

 ……翔太さん。
 今、貴方の真横で庭の鉢に水をやっているおばあさんが、大家さんです。

 すみません、と唯は大家さんに頭を下げた。

 大家さんは苦笑いして、年代物のブリキのジョウロを手に中へと入っていった。