持ち時間は直も日比野棋聖も一時間を切っている。
一時間を切ると60~1まで番号が書かれた紙が出て、一分使うごとに記録係が線で消していく。
対局室にはそのシュッ、シュッというペンの音だけが響いていた。
日比野棋聖の残り時間はあと三十三分。
直の残り時間は、あと十二分。

「……つまり、有坂さんは勝てそうなんですか?」

私以上に知識のない頼子ちゃんは、もっとも端的な質問を投げ掛けた。

「わからない。棋聖もだいぶ持ち駒が多いから、後手玉が詰んでもおかしくない。形勢は互角だよ」

解説でも直の玉が詰む手順を探して、あれこれ検討している。
が、今のところギリギリ詰まないらしい。

「大丈夫だって!」

私は目を輝かせておじちゃんを見た。

「間違えなければな。だけど桂馬一枚渡れば詰むみたいだよ。受けを間違わず、且つ、桂馬を渡さない手順を確実に、しかも時間がない中で読み切らないと。こんな局面、一手間違えたら、わずかな優勢なんて吹き飛ぶ」

「どうしたらいいの?」

「あとは指運だ」

おじちゃんの声も苦しそうだ。

「『指運』?」

「一分間、棋士はもちろん必死で読むけど、最後の最後は直感とか反射が決めるってこと」

━━━━━直感は重要だよ。蓄積された経験や知識に基づいて、研ぎ澄まされた感覚で感じることなんだから━━━━━

「それって、積み上げてきた経験とか人間性とか全部出るって意味?」

「そうだ」

怖がり過ぎてもダメ。
無謀に突っ込んでもダメ。
強い気持ちを持って、けれど冷静に。

「俺なら」

「おじちゃんなら?」

「ビビって漏らす!」

「オムツ穿いて!」

優勢の将棋を勝ち切るには何が必要なのだろう。
どうか運なんていう漠然としたものではありませんように。
直が納得できる対局でありますように。

直は一度離席し、羽織も着直して戻った。
まもなく直の方が先に持ち時間を使い切る。

『有坂先生、これより一分将棋でお願いします』

『はーい』

ここからは一分以内に指さなければ、その時点で負けとなる。
もう投了まで、トイレに行く暇も、羽織を着る暇もない。

『50秒ー、1、2、3、4、5、6、』

打ち込まれた飛車から、直が玉を逃がした。
まだ少し時間のある日比野棋聖は、じっと考えている。