「そのお姉さんに格好つけたくて『プロ棋士になるんです』って言ったのに、きょとんとされてさ、『プロ? 将棋にそんなのあるんだ。私なんてドミノくらいしかできないよ』って」
言い終わらないうちに、直はクスクスと思い出し笑いをしている。
「もう一度その人に会えたら、『プロになりました』って言おうと思ってたのに、実際はなかなか言えなかった」
直は改まった態度で私の正面に立った。
「あのときはお世話になりました。おかげで無事、将棋のプロ棋士になれました」
深く頭を下げた直の髪は、夜に溶け込むように黒く、その上を車のライトが通り過ぎていく。
「…………………は? 私?」
「あははははは! 予想通り、全っ然覚えてないんだね」
「うそうそ! 本当に私? 人違いじゃない?」
「赤くて、金色の蝶々のついたお財布使ってなかった?」
「……使ってた」
「携帯に変な人面魚のストラップがついてて、迎えに来た彼氏から『マオ』って呼ばれて━━━━━」
「私です」
昔お気に入りだったお財布と、友達からもらったストラップ。
それは確かに私を示しているのに、頭を抱えて考えても、はっきりと思い出せない。
ふたたび歩き出した直は、目を細めて半月を見上げる。
「十年前の直感は、やっぱり間違ってなかった」
直が昇段できたのは紛れもなく直の実力で、私が多少関わっていたとしても、その事実が揺らぐものではない。
だけど、それで直が私に目を向けてくれたのなら、たくさんの偶然と、十年前の気まぐれに感謝したい。
「最初から言ってくれればよかったのに」
直は困ったように首を振る。
「だって、真織が俺を好きじゃないってわかってたから。好きでもない男に『十年前から気になってた』って言われたら、絶対気持ち悪かったと思うよ」
「それで、私と少し距離を持ってたの?」
「無理に迫って嫌われたくないもん。十年かかったんだから、あと一年くらいは待ってみようと思ってた」
最初から遠慮なく触れられていたら、こんな風に心を開いていなかったかもしれない。
何か裏があるに違いないと、ずいぶん疑ったから。
今は、直がくれたすべての言葉を、素直に信じられる。
「ごめんなさい。私、いろいろ勘違いしてた」
「俺も、連絡しなくてごめん。次に会うときは振られるんじゃないかと思ってて。だからさっき謝られてびっくりしたー」
私の持つビニール袋からは『真っ直ぐ 共に』が透けて見えている。
「あのときは自分を拒絶されたようで悲しかったけど、真織なりに将棋と向き合ってくれたんだよね。ありがとう」
直の隣を歩く私のヒールの音も、軽やかに弾んでいた。



