「私は将棋がわからないから。直のいる世界のこと理解できないし」

「できないし?」

「だから直が将棋で落ち込んでいても支えてあげられないし」

「あげられないし?」

「もっと将棋をよくわかってる人ならそれができるから。そういう人は直の周りにいっぱいいるでしょう?」

私の言葉を聞いても返事はせず、直は黙々と、ほとんど一気に残りの定食を食べ切って、パシンと箸を置いた。

「いるよ、たくさん。将棋のことしか考えてない人ばっかりね」

直は笑わずに私の顔をしっかり見る。

「俺は真織さんに何か要求した? 支えて欲しいって言った? 慰めて欲しいなんて言った? 俺は記憶にないけど、真織さんにはあるのかな?」

パチン、パチンと玉を追い詰めるみたいに直が畳みかける。

「棋士はね、いつもひとりで戦うんだ。仲間って言っても結局はライバルだし、対局になれば常にひとりで考えて、ひとりで決めて、ひとりで全ての責任を負う。誰も助けてくれない。でもそんなこと分かり切ってる。覚悟なんて小学生のときからしてきた。今更支えてもらう必要なんてない」

プロ棋士は約160人。
その中でタイトルホルダーは最大でも八名、最小だと一名。
スポットライトには定員があって、どんなに親しくても、一緒に研究をしても、手を取り合って上る高みではない。
そして譲り合う場所でもない。

「結局、真織さんは引いたんでしょう? たかがゲームに必死になってる俺たちに。常識から逸脱してるもんね。それが嫌だって言われたら、俺はどうしようもない。ごめん、帰る」

引いたんでしょう? と言われて否定できなかった。
根底にあるのは敬意だったとしても、確かに私は引いていたのだ。
自分とはあまりにも違う生き方だから。

私にも社会人として積み上げたものが少しくらいある。
でも直の世界にいると、それはほとんど役に立たない。
直が社会人として欠落していることがあるように。

私は自分が理解できないからって将棋の世界に引いて、それで直を傷つけたのだ。
向けられた言葉の重みで顔が上げられず、直の背中を見送ることもできなかった。

帰り際に直はしっかり私の分までお金を払って行ったらしい。
そうしてご馳走してくれたラーメンも、胸が詰まって食べられず、すっかり冷たくなっていた。