長崎武とは大学で知り合い、一年ほどの友人関係を経て十九歳のとき付き合い出した。
それから九年。
お互いに初めての恋人であり、たまに喧嘩はしても決定的な亀裂が入ることはなく、自然と結婚の話題も出るようになっていた。

私も武も会社員で、平日は仕事だから会うのは週末。
放っておくと二、三日連絡を取らないこともあるけれど、それで全然気になっていなかった。

だから土曜日の今日は、たまに映画でも観ようかと外で待ち合わせ、適当に選んだ邦画を一本観てから、駅構内にあるチェーンのコーヒーショップにふたりで入った。
その時まで、確かに武が私の彼氏だったのだ。

コーヒーショップから出るときには、自分の置かれた状況が信じられずに、私はボーッとしていた。
私が信じてきた人は、積み上げてきた時間は、幻だったんじゃないか。
それとも映画を観ている途中で眠ってしまって、まだ夢の中なのか。
そうだったらどんなにいいだろう。

自宅に帰るには改札に向かわなければならない。
それなのに、このまま帰ってしまうとすべてを現実だと認める気がして、迷惑にもコーヒーショップの入り口前に佇んでいた。

そんな私にさえ届く大きな声が駅構内に響き渡る。

「ちょっと! お兄さん! ……待って……!」

重そうな紙袋を三つも持ったおばさまが、息も絶え絶えに構内を走っている。
多分、本人の気持ちは走っている。
けれど、紙袋三つのせいで(お年のせいもあるかな?)スピードは歩く私と同程度。

「はあはあ、お兄さん! ……待って……!」

おばさまの視線の先には、若い男性の姿がある。
スーツのジャケットを脱ぎネクタイも緩めている彼は、どことなく焦点の定まらない目をしてスタスタと歩いていた。
自分のことだと思っていないのか、スピードを緩める気配はない。

痴情のもつれか、はたまた何かの犯罪か、と想像を巡らせたけれど、目の前を通過したおばさまが紙袋とともにICカードを握りしめていたので、疑問はすぐに解消された。

「すみませーん!」

肩で息をするおばさまを追い越し、少し先を行く背中に呼び掛けると、それまで無反応だった彼が急に立ち止まった。
少し長めの前髪の向こうで、黒い瞳が私を見つめる。
そのまま言葉を失ったように立ち尽くしているから、すれ違う女性のバッグが彼の腕にぶつかった。
ところが彼は、それにも気づいていないようだった。