手ぶらでふらふらと帰ってきた社長は、直が「お邪魔してまーす」と声を掛けても返事もしなかった。

「はああ、どうしよう……」

呆然とした様子でイスに座る社長に、

「社長ー、宛名シールなくなったから、ついでに買ってきてって言ったじゃないですかー」

と、頼子ちゃんが小言を浴びせかけたけれど、やはり反応はない。

「あーーっ、ダメだ! 有坂棋聖! この詰将棋って何手で詰むの? 手数だけ教えて!」

おじちゃんがうんうん唸っていた原因は、昨日の食べ過ぎや便秘ではなく、詰将棋だったらしい。
仕事中もポケットに忍ばせていた紙を、直に押しつける。

「おじちゃんにそう呼ばれるの、なんか恥ずかしいです。普通にしてください」

問題を見た瞬間、直はすうっと詰将棋に集中してしまい、私が作ったおにぎりは、歯形がついたまま放置された。

「おじちゃん、もしタイトルをふたつ以上持ってたら、何て呼ぶの?」

「『有坂二冠』とか『有坂三冠』だな。でも名人か竜王取ったら、何冠持ってても『有坂名人』『有坂竜王』になる」

「名人と竜王、両方持ってたら?」

「『有坂竜王・名人』」

「へえ~、複雑」

「━━━━━19手詰めです」

ものの数十秒であっさりと解いて、ふたたびおにぎりを食べ出す。

「それで詰むんだ!」

「詰みます」

「初手2三金は間違いないと思うんだけど」

ふふふふ、と意味ありげに笑った直に、おじちゃんが焦り出す。

「え!? 違うの?」

「いや、いいんじゃないですか? 手数は少ないけど、なかなかいい問題ですよ、これ」

「19手で少ないなんて言ったら、おじちゃんが可哀想だよ」

「だって、19手くらいなら実践でも出てくるレベルだからなあ」

直は、特別詰将棋が得意なわけではないと言う。

「俺の場合は脳トレ感覚。詰将棋回答選手権に出るようなすごい人とは、スピードも解ける手数も違うよ」

ということだ。
詰将棋には詰将棋特有の美学や世界観があって、それは将棋そのものとは少し違うらしい。
そんな直でも、数日がかりで100手を超える問題を解いているから、やはりこの世界は途方もない。

「はあああ、困ったな」

さっきより大きな声で、社長がこれみよがしにため息をつく。

「社長、具合でも悪いんですか?」

面倒臭い、という表情を隠さずに社員全員、ついでに直まで社長のデスクに集合したのだが、タイミング悪くインターホンから元気な声が割って入った。