「そういえば名前も聞いてなかったね」

現状、自分の彼氏の名前すら知らなかった。
どこまでもどこまでも見渡す限りの異常事態。
交換した連絡先の名前は『有坂行直』とある。

「ありさか?」

「『ありさかゆきなお』です」

「そう。あ、何歳?」

「二十六です」

「ふたつ年下か。うーん『ゆきなお』って呼びにくいね。『ユキ』『ナオ』よし、『直』って呼ぶね」

「わかりました。『鈴本真織』さん……『真織さん』でいいですか?」

「いいよ」

「じゃあ、よろしく。真織さん」

そう言って差し出された手の意味がわからずじっと見る。
大きくてちゃんと男の人の手なのに、すんなりとしたなんとも言えず美しい手だった。

あ、握手ね! 「契約完了!」みたいな。

一呼吸遅れて握った直の手は、すっきりとした見た目に反して少しだけ汗ばんでいた。
それは決して心地いいものではないはずなのに、そのぬるい体温にどこかホッとした。
そしていつでも乾燥していて、スーパーのビニール袋さえ開けられなかった武の手とは全然違う。
そう思った途端にポロリと涙がこぼれた。
涙だと自覚するともう止まらなくて、だけど右手は直の手を握り、左手でバッグを持っていたからボタボタと流したままになる。
人目もあるところで急に泣いたりして、申し訳ないと謝りたかったのに、息が詰まって言葉にならない。
声もなくひたすら泣き続ける私を、直は握手したままの手を引いてコインロッカーの陰に誘導してくれた。

いつの間にか離れていた直の手が私に向かって伸びてくる。
涙の向こうにそれが見えて、私は身を硬くした。

 ひと言の慰めでも口にしたら締め上げる! 触ろうものなら殴ってやる!

迷惑をかけておきながら失礼な心の声が届いたように、直の手が私に触れることはなかった。
何を問うこともなく、労りも哀れみもなく、ただ見守っている。
さっき伸ばされた手はコインロッカーに軽く置かれて、囲うように私を視線からかばってくれていた。
その壁の中はとても居心地がよくて。
私はここが駅であることも忘れて、存分に泣かせてもらった。
忘れていたところで事実が変わるはずはないので、見事に腫れ上がった目を晒しながら帰る羽目になるのだけれど。

送りますという直の申し出を断ると、彼はあっさりと引き下がった。
いろいろあり過ぎて消化しきれていない状態で、今知り合ったばかりの人と一緒にいることは負担だった。
多分、そこもわかっていたのだと思う。