全ては、この一瞬の出来事から、始まったのだった。

「ゴツッ」

 それは、鈍い音だった。
 老婆の白髪に一瞬突き立てたように止まる。

 単語帳はその後、老婆の白髪をさらりと撫でるように滑ると、床に落ちて派手に開いた。

 金縛りから解けたようにアユミは落下した単語帳に手を伸ばすと、無我夢中で拾い上げ、鞄に押し込む。

「ふう」

 ようやく今まで溜めた空気を、一気に吐き出した。そして、ゆっくりともうひと呼吸おいて、耳元から恐る恐る老婆の様子を伺う。


 老婆は案の定、こちらを見ていた。

 シワだらけの顏。白い化粧で厚く覆われた肌に頬紅。濃いアイシャドーに、付け睫が立ち、くっきりとした赤い口紅が、充分に血を吸った蛭のように動く。

 アユミは一瞬怯んでしまった。しかしその老婆は、とても優しい眼差しを投げ掛けていたのだ。口元から歯を見せず、何も言わずに微笑んでいた。

「す、すみません」

 アユミは小さく言いながらも、心の中でほっとした。

 体の力が抜ける。
 怒ってはいない……のだ。それは間違いない。

 しかし、である。

 ただ、容姿の異様さだけではなく、何故だか判らなかったが、この老婆から発っせられる言い様のない違和感が、アユミの心を覆った。