ついでながら。
外記の妻は二千五百石の旗本家から嫁いでおり、男子を二人なして世嗣ぎの用は果たしたが、そうした体面を重んじる堅苦しい本光院の言動が、外記の吉原通いの原因であったのかも分からない。
こんな噺がある。
あるとき本光院は外記を座敷牢に押込をしようと画策したが、用人の尾崎軍兵衛のしくじりで外記は綾衣のもとへ逃げてしまった…といったことすらあった。
折しも。
新吉原では天明四年四月十六日に火事があり、遊廓が復旧するまでとの条件がついて、公儀の許可のもと両国の回向院門前の仮宅で客を取ることとなった。
吉原までだと妻恋坂からはかなり歩くので、柳橋あたりか、和泉町あたりの河岸から船しかない。
しかし両国の回向院門前なら、吉原よりは近い。
こうしたこともあって、外記は藤枝家に居づらくなると綾衣のもとへ通っていたのかも知れない。
この頃。
藤枝家では本光院が外記を出世させようと方々に掛け合って、ようやく甲府勤番の空きを見つけた。
甲府は藤枝家ゆかりの地でもある。
しかも役高も良い。



