【完】『浅草心中』


本光院が言うご連枝というのには、解説が要る。

もともと藤枝家は武士ではない。

三代将軍家光の御台所が鷹司関白家から輿入れした際の侍女が家光の子を産み、それが甲府宰相となるに及んで、父が藤枝弥一郎となって武士に取り立てられ、甲府宰相の家老となった。

しかも。

この甲府宰相の子、つまり藤枝家の外孫は六代将軍の家宣となって、この時から藤枝家は旗本となり、藤枝摂津守と変わった。

禄高も家老のときの三千石から四千五百石になり、そこへ養子入りしたのが外記である。

が。

この養子というのが藤枝家では問題であった。

というのも。

本来だと四千五百石の将軍家の遠戚なら、名家や名門から養子を取るのが通常である。

ところが。

外記の養子入りは先代の急死にともなう、家名存続のための応急措置のようなもので、いわゆる末期養子というやつであった。

さらにいえば。

急を要したため名門や名家に構っている暇がなく、五百石小普請組という格式の低い家から養子を入れざるを得なかったのである。