藤枝外記。
諱は教行(のりなり)。
天明年間の武鑑によると湯島の妻恋坂に屋敷があり、四千五百石の知行があるので寄合の旗本にあたる。
当時の記録には、
「色白く、身の丈は五尺六、七寸、流行りの黒繻子の羽織に萌黄ちりめんの小袖、あっぱれカッポレな男前」
と記されてあって、妻恋坂の裏手に位置する神田明神のあたりでは、娘たちの噂にのぼるほど知られた殿様であったらしい。
その外記が馴染んでいたのが綾衣である。
天明五年の吉原細見というガイドブックには大菱屋の七番目に名前があり、だいたい中の上ぐらいの遊女にあたる。
まだ十九歳であったが、吉原細見で七番目に名前があるところから、割と教養に秀でた遊女であった事実が窺われよう。
これがいつ、どういういきさつで知り合って馴染んだのかは不明であるが、吉原という場所はもともと、
「悪所」
と蔑まされる場所だけに、ルールとモラルとマナーが特に重んじられた。



