この都々逸が流行ったのを機に公儀では再検分が始まった。
一度は埋葬した外記の亡骸を再び検分したのである。
やがて。
亡骸は外記のそれと判明した。
斯くして。
事件から九日後、
「公儀に対し、家人とはかり、家人辻宗右衛門と偽り、このこと申し陳じけるを以て咎の段これあり、よって藤枝家の家名断絶を申し付け候」
と評定所からの命が下って、ほどなく藤枝家は改易となった。
本光院と外記の二人の子は縁者に預けられ、妻は離縁ののち実家へ返されている。
また。
尾崎軍兵衛は蓄電し、行方は不明となった。
最後に。
綾衣の亡骸は三ノ輪の寺へ移され、そこで他の遊女と共に弔われたという。
(『徳川実紀』『浅草寺日記』より)
【完】



