「…、はあっ」



荒い息づかいと地面を蹴る音だけが耳に響く。


冷たく凍えた空気がのどを焼いて息ができなくなるけれど、それでも足を止めたりはしなかった。


身に絡みつく恐怖感と不安感、そういうものすべてを振り払うように、ひたすら全速力で走る。


行くあてなんてない。

ここがどこかもわからない。

これからどうなるのかなんて、考えたくもない。



「由蘭(ゆら)は俺の。そうでしょ?」



不意に蘇ったのは、幼い頃から聞き続けた彼の言葉。


忘れたい記憶。


彼はそう言って、わたしに鎖をつけた。


目には見えない鎖。けれど一生解けることのない鎖。


わたしの嫌がる顔を見て、彼はいつも楽しげに笑った。


きゅ、と唇を強く噛む。


ダメ。思い出したらくじけそうになるから。

無理やり頭から追い出して、走ることに専念する。


ひとつだけわかるのは、捕まったらいけないということだけ。


逃げなくちゃ。

どこでもいい、彼の手の届かないところへ…。


このまま彼の人形として過ごすなんて、そんなの嫌だ。


逃げるチャンスは、今日だけ。彼が一日家に帰ってこない今日しかない。


無謀なことだとわかってはいるけれど。


今日を逃したら、きっとわたしは一生このままだから。







「…、」



気づけば星はほとんど見えなくなっていて、代わりに人工的なネオンの光がわたしを包む。


異様なその明かりに足を止めて、深く、息を吸い込んだ。


派手な格好で地面に座り込む女の人、ガラの悪い男の人があたりをうろつく。




(…、繁華街)