「一つだけ、お願いがある」
春之がそんなことを言い出すなんて珍しく、私は全身を氷のようにして身構えた。
「俺が嫌になったら遠慮や同情なんてしないでそう言って欲しい」
春之のことを嫌になるなんて、そんなことができるならあんな拗らせた恋愛してない。
「そんな日は来ない」
「それなら嬉しいけど」
言葉と共に笑顔を浮かべる春之は、しかし全然信用してないようだった。
「春之はどうして欲しいの?」
ずっと何も望めない相手だった。
同じように春之から何かを望まれたこともなかった。
私自身でさえ、私が望んだから受け入れてくれたようなものだ。
春之の想いはいつも分厚い摺りガラスの向こうにぼんやり透けて見える影。
「あいが、望むように」
やさしく私の髪の毛を梳く指も、悲しみを溶かし込むだけだ。
「春之は優し過ぎる。私はもらうばっかりだね」
胸に向けて発した言葉に反応がないので顔を見ると、ひどく驚いた表情で私を見ていた。
「俺はあいから奪うだけだよ」
たくさんのものを与えられこそすれ、奪われたものなんかない。
けれど春之は悲しげな目をして、再び私の髪の毛を梳く。
「本当にあいのためを思うなら、どんなことをしても拒絶するべきなのに『あいが望むから』って理屈をつけてこうして一緒にいる。水を流せば崩れるってわかってても、結果的にあいが泣いても、俺は自分から『やめよう』とは言わない」
春之が側にいてくれるならそれで構わない。
『あいのため』なんて薄っぺらい善意さえ一瞬で流し去る熱の方がいい。
「『やめよう』なんて言わないで、全部どこまでも押し流してよ」
春之の体温はとても高い。
キスはそれより更に。
真剣で湿度の高い目も、力強い腕とは違って愛しげに柔らかく触れる指も、心から愛した人に愛されるってどういうことなのかも、恋人になるまで知らなかった。
「あい」
どんなに電子機器が発達しても、こうして触れ合う以上に強く相手を感じる方法は他にない。
何千年も昔からずっと。
〈永遠〉なんて贅沢は言わないけど、〈一瞬〉じゃ足りない。
まばたきにも似た数十年だけでいいから一緒にいて。
そしてまた涙が春之の指を伝っていく。
end
*special thanks*
浪岡茗子様 『デジタルな君にアナログな刻を』



