翌日の3日、金曜日の朝。
いつものように半分冷めかけのトーストをかじりながら、
ドタバタと出かける準備をして慌てて家を出る。
駅に着くとホームに電車を待つ紺野さんがいて、
私に気がつくと「蒼さん」と声を笑顔でかけてきた。
彼から名前で呼ばれることなんて、
思いもしなかっただけに戸惑いは隠せない。


(町屋駅のホーム)


真一「蒼さん、おはよう」
蒼 「お、おはようございます、紺野さん」
真一「蒼さんもこの駅から乗ってるんだ。
  町屋に住んでるの?」
蒼 「私は二丁目に住んでて、
  妹と二人で暮らしてるんですよ。
  紺野さんも町屋に住んでるんですか?」
真一「ああ。僕は一丁目に住んでて、
  一人暮らししてるんだ」
蒼 「そうなんですね!同じ町内なんてご近所さんだな」
真一「ああ。蒼さんとは何だか不思議な縁を感じるよ」
蒼 「本当ですか?
  (うん!うん!たくさん縁を感じてよ。
  そうだ。紺野さんに仕事のこと聞いてみよう)」


とにかく私のハートは高揚し、深く波打ち舞い上がっている。
紺野さんが気さくに話しかけてくれるせいか、
調子に乗ってどんどん話しかけていった。


蒼 「紺野さんの勤務先って、黄金通信社でしたよね」
真一「うん、そうだよ」
蒼 「あの、会社ではどんな内容のお仕事をされてるんですか?」
真一「僕は通常は営業職なんだけど、
   この7月から3つの雑誌の企画担当もさせられててね」
蒼 「雑誌の企画ですかぁ」
真一「うん。今進めてる雑誌の企画はかなり大きな仕事でね。
   今先方からの返事待ちなんだ。
   あっ、電車きたよ。乗ろう!」
蒼 「はい」


私達は着いた電車に乗り、入口近くでいつものように隣に並ぶ。
発車合図のベルが鳴り、ファーンっと電車のクラクションが響くと、
通勤客をギュウギュウに乗せた電車はゆっくり走り出した。
まるで私の躍る心のように揺られながら話の続きを始める。


真一「でも、今やってる雑誌の仕事は正直言うと、
  僕の性分に合わないんだよね。企画なんて」
蒼 「でも、営業職も数字に終われて大変でしょ?
  自分が企画したものが形になるって素敵ですよ」
真一「うん、そうだね。ただね。
  今回のは編集長もかなり力入れてる企画だから責任重大でね」
蒼 「そうなんですね。あの、立ち入ったこと聞いてごめんなさい。
  先ほどお話していた企画って、
  “スター・メソッド”と言う会社と関わりありますか?」
真一「うん、あるけど。
  蒼さんが何故“スター・メソッド』のこと知ってるの?」
蒼 「それは、その会社に妹が勤めてるからです。
  私“黄金通信社”のお仕事を手伝って欲しいって、
  妹から依頼されたんですよ」
真一「えっ。うちの仕事を蒼さんが?」
蒼 「はい。臨時のお仕事で短期なんですけどね。
  だから、もしかしたら紺野さんのお仕事と、
  関連があるのかなと思ってですね」
真一「そうなんだ!
  その仕事って“ツイン・ビクトリア”企画?」
蒼 「あぁ……、それは私にはまだ分からなくて、
  昨夜依頼されたばかりだから、
  詳しい内容は聞かされてないんです」
真一「そっかぁ。もし仕事が一緒だったら、
  本当に蒼さんとは縁があるかもしれないね。
  電車も同じ、勤め先や家もご近所さんで、
  仕事まで一緒にするようになるなんて、
  そうそうないからね。
  もし蒼さんが『ツイン・ビクトリア』の件に関わるなら心強いよ。
  企画のOKが出る様に妹さんや責任者に、是非押して欲しいんだ。
  その時は宜しく頼むよ!」
蒼 「はい。分かりました」



彼は微笑んで私の手を強く握った。
私達は会社に着くぎりぎりまで話す。
彼は30歳、乙女座で独身現在彼女なし。
出向で仙台に1年いたけれど、
3ヶ月前に東京町屋に帰ってきたと話してくれた。
話している途中で気がついたのだけど、
彼は私の手を握ったままずっと話している。
意識してしまったからか
いつも降りる上野駅に着くと、彼はやっと繋いだ手を離した。


真一「蒼さん、今日もいい香り。
  この優しい香りは心がホッとするよ」
蒼 「えっ、そんなぁ」
真一「あっ、ごめん。無意識に手を繋いでた(笑)」
蒼 「いいんです。ちょっと嬉しかったし(笑)」
真一「そう。蒼さんは彼氏は?
  化粧品会社だったら、職場恋愛とかで、
  出会いありそうだから彼氏いるかな」
蒼 「それが……居ないんですよね。恋人募集中です」
真一「じゃあ、好きな人は居る?」
蒼 「え?あぁ。
  いいなって思う人は居るんですけど、まだ片思いで」
真一「そっか。僕は仙台に居た時、
  片思いしてた女性に告白してあっさり振られたんだ。
  まぁ、出向が終わる前で、
  もうすぐこっちに帰ってくるって時だったから、
  タイミングも悪かったけど、やっぱりショックだったよ」
蒼 「それは、辛かったですね」
真一「でも今では傷もすっかり癒えてきたけどね。
  そのキッカケをくれたのは蒼さんだよ」
蒼 「えっ。私?」
真一「そうだよ。
  こっちに帰ってきた当初なんて、
  電車で気づいた蒼さんの優しい香りに僕は救われてたな」
蒼 「し、そんな。
  でも、そう言って貰えたると嬉しいです」
真一「ねぇ、蒼さん。
  来週月曜日、僕がいつも行ってる公園の『ほのぼのカフェ』で、
  一緒にランチしない?」
蒼 「えっ!?一緒にランチですか」
真一「もし友達と約束があるなら無理は言えないけど」
蒼 「いえ、来週月曜日大丈夫です!
  誘ってくれてありがとうございます」
真一「そう、良かった!その時に今日の話しの続き話そうね。
  じゃあ、お互い1日仕事頑張ろう」
蒼 「はい。頑張りましょう」
真一「また来週楽しみにしてるからね」
蒼 「はい。私も。……やった!」


私は立ち去る彼の背中を嬉しそうに見送った。
彼から誘われるという嬉しい急展開。
なんだか夢を見てるみたい。
会社までの道のりを、電車の彼と二人で話しながら歩くなんて、
つい何日か前まで想像もしなかった。
辞表騒ぎが進まなかった時計の針を動かしてくれたのかも。
それとも……それとも奏士くんとの出会いが、あの絵が、
私を大きく変えてくれたのかもしれない。


紺野さんは笑うと目の横に笑いシワが入って、
とても柔和な表情になる。
会社に着いて変わらない仕事をこなし、
昼休みは満智子と公園で話しながらランチして、
カフェで会社のお友達と話しながら食事をする、
紺野さんの姿を見ながら小さな幸せは浸る。
今の私はこんな平凡な日常がとっても居心地よくて、
ずっとこのまま守り続けたいと思った。