優馬と七瀬は、何と言っていいのか分からず互いの顔を見合わせた。

「ねえ優馬。今の、見た?」

「うん、見た」

 優馬はいつの間にか乾ききっていた唇を舐めた。けれど口の中までからからで、上手い具合にはいかなかった。

 たった今見たものは夢か幻か。感覚が追いついていなかった。ただ、聞こえてくる蝉しぐれは相変わらずで取り巻く空気も特に変わった様子はない。光を浴びた時のような危険はないように思われた。

 優馬は、取りあえずの安堵にほっと息を吐いた。自らの状況について考え、ここへ何をしに来たのかようやく思い出す。

 ──そうだった。七瀬を連れ戻しに来たんだった。

 改めて眺めて見ると、七瀬は相変わらず水着姿のままだった。優馬の視線は、半ば吸い込まれるように七瀬の無防備な柔肌へと注がれる。

「ば、ばかっ! なにジロジロ見てんのよ。目つきキモいんだけど!」

 七瀬はジト目で優馬を睨みつけると体を捻り、両腕で上半身を覆い隠した。

「わっあっ、ごめん!」

 七瀬の声に我に返った優馬は、反射的に謝りながら七瀬の反撃に備えて身構えた。
 が、七瀬は反撃してくるどころか、同じ姿勢のまま優馬を睨んでいる。普段なら蹴りの一発でも入れてきてもおかしくない状況ではあったが、七瀬の反応にいつもの切れはない。というより、むしろ年頃の女性としてごく当たり前な反応と言った方が正しい。

 そんな、普段とは違う七瀬の態度がよりいっそう優馬の調子を狂わせる。

「そうだった、これ!」

 優馬は手に付いた砂利を払い、リュックからタオルとパーカーを取り出した。

「体、拭いてよ」

 なおも不機嫌な表情でいる七瀬に、優馬は両手を突きだす。七瀬を直視することができず顔は明後日の方を向いたまま。

「持ってきてくれたんだ」

 優馬は卒業証書を受け取る動きを逆再生したようなぎこちない動きで、さらにずい、と突きつける。

「いいから、早く着てよ」

「うん……ありがと」

 思わず突っかかるような口調になってしまう優馬ではあった。が、七瀬はそれをなじるどころか優馬と同じように気持ち顔を俯かせながらタオルを受け取り、いつになくしおらしい態度で身体と髪とに残っている水気を拭い取った。

 そのあいだ、優馬はパーカーを両手に掲げる一方で顔を上げないまま身じろぎ一つしないでいた。顔を上げるとまた色々と視界に入ってしまいそうで、どうしていいのか分からないでいるうちに何となくこの格好に落ち着いてしまっていた。

 七瀬は、そんな優馬に向けて、(ばーか)声には出さず口と唇だけ動かすと満足げにほほ笑み、ライトグレーの前開きパーカーを受け取り素早く袖を通した。

「はぁー、あったかーい」

 七瀬は心の底から吐き出すかのようにつぶやきながら、両腕の二の腕辺りを薄地の長袖越しに擦った。

 その言葉に優馬は顔を上げ、パーカー姿の七瀬を確認したところでようやく肩の力を抜いた。

「上着持ってきてくれて助かったよ。ホントは日焼け止め代わりに着て帰るつもりだったんだけど、泳いだらちょっと冷えちゃったみたい」

 パーカーのジップを上端近くまで引き上げる七瀬の唇に普段の鮮やかな紅色はなく、今は鈍い青紫色に変色している。珍しく素直な感謝を口にする七瀬に、優馬はうなずくことしかできない。

 七瀬は自分に対して珍しく優馬が気を利かせてくれたと思っている。そう思われているだろうことが、却って優馬には後ろめたい。とにかく目のやり場に困るのだ。見てはいけないものを見てしまったように気が咎め、直視できずにいる。

 ──だからせめて上着だけも着ていてくれよ!

 優馬は心の中で悲鳴をあげると同時に自分に向けて言い訳していた。つまりこれは一種の自己防衛。決して冷たい川水に濡れたまま裸同然でいる七瀬の体調を気遣ったわけではないのだ、と。

 というわけで、と前置きしてから七瀬は視線を上げた。

「あれが若葉さんの言ってたお地蔵さんよね」

 七瀬の視線の先には古びた地蔵が一体、身をやや傾けながらも滝壺を見守るように立っている。どれだけの年数を経ているのか、風雨に晒され続けた顔は風化が進み、表情をうかがうことは叶わない。

「そうみたいだね」

 ──どうする?

 優馬をまっすぐに見つめる七瀬の目が訴えていた。

 優馬の視線を逸らさせたのは、照れでも恥ずかしさでも気まずさでもない。むしろ、いっそ純粋と言ってしまっていいほどの困惑だった。自分は一体いつからそんな視線を受けるような身分になったのか。そこに全く身に覚えがないのだから。病院の時は頼みごとを頼む、受けるという立場上の理由があった。

 けれども、今の自分にこのような視線を向けられるだけの理由があるというのか。やはり、分からない。

 それはさておき、優馬は拳を握り締めた。

 ──僕たちはもう前に進む以外ないんだ。

 優馬は腹に力を入れて深呼吸。弱気な自分を追い出すように強く息を吐き出した。

 ──どうか、臆病者に少しばかりの勇気を。

 果たして祈りの向かう先はどこなのか。自分ですら分からないまま、優馬は真剣に願った。

「よし。やってみよう」

 優馬のいつにない真剣さに、七瀬はただ黙ってうなずく。

 改めて目の前にしてみても、地蔵はあくまでも地蔵であり危険なものは一切感じられない。これに触れたところで何があるのかと思ったところで、いつもなら自分に付いて回るものがないことに優馬は気が付いた。

「七瀬、あのさ」

「何?」

「大丈夫、な気がする」

「根拠とかあるの?」

「鼻血だよ」

 七瀬は話の要領が掴めず、眉を寄せたまま首を横向きに傾げた。

「知っての通りだけど、僕には何かとすぐ鼻血を出す変な体質がある。気のせいかもしれないけど、僕の身の周りに面倒なことが起きる時って必ずと言っていいくらいに鼻血が出るんだ」

「例えば?」

「最近だと、そうだね、例えば」

 優馬は思いついたままに羅列する。

「神社の奥に入った時とか、あと七瀬がオカ研に入部した時とか」

「何それ。私が面倒くさい奴みたいじゃない?」

「いや、別にそういうわけじゃって、わ、わ、ごめん」

 険のある声とともに七瀬が怖い表情で睨みつけてきた。それだけでは収まらずぐいぐいと詰め寄ってくる。

「ごめん、ごめんってば!」

 ようやく七瀬が離れたところで、優馬は呼吸を整える。なおも鼻息荒くしている七瀬の様子が落ち着くのを待ち、話を再開した。

「で、今は鼻血が出てないんだ。これだけの状況で出てないってことは」

「危険じゃないってこと?」

「そう思う」

 ふうん、と優馬の見解に納得したのかしないのか、七瀬は神妙な表情を浮かべながら小さくうなずいた。

「ねえ優馬」

「何?」

「優馬は怖くないの? さっきから割と普通に幽霊と向き合ってるけど」

「そりゃ怖いよ。怖いに決まってるじゃないか」

 思わず指を指しかけたところでびくっとその手を止め、「当たり前だよ」自分に向けて言い聞かせた。

「そっか。当たり前か」

 いつも通りの、やはり言葉足らずな優馬の回答にそれでも七瀬は満足げにうなずき、微かな笑みを浮かべてみせた。

「あのね、優馬。私知ってるよ。優馬はちゃんと勇気を持ってるって」

「……何言ってるの?」

 けれども、その言葉は余りにも突然で、いきなり聞かされた優馬には七瀬が冗談を言っているようにしか聞こえない。

「本当にそう思ったから言ってるの!」

「はぁ」

 が、優馬はため息に近い気のない返事をするのがやっとだった。実感がないと言えば、これほど実感の湧かない話もなかった。

 無理からぬ話ではない。ただでさえ一度出来上がってしまった自画像を修正するのが難しいというのに、七瀬の指摘はキャンバスそのものを変えてしまうほどの重要ごとなのだ。

 優馬自身、自分に勇気があれば思わないことなどただの一度もなかった。とはいえ、優馬にとってみればそれはあくまでもないものねだり。深い断崖の果てに霞む桃源郷と言っても過言ではない。

 ──まあ、七瀬なりに同情してくれてるんだろう。

 というのが、今の優馬を納得させる落とし所となっていた。

 もはや呪いそのものと化した記憶が心の奥深いところに絡みつき、十年近く経った今もなお優馬を縛り続けている。

 優馬の様子を見ていた七瀬は視線を落とし、小さくため息をついた。が、すぐに顔を上げると崖の中ほどを指差した。

「ねえ優馬、あの崖から飛び込んだ時のこと覚えてる?」

「そりゃあ、まあねえ」

 気のない返事をするのと同時に、けれども優馬は顔にまとわりつく虫でも振り払うようにぶんぶんと首を振り始め、それだけでは済まずその場に力なくうずくまった。

「え? 何? どうしたの?」

 けれどもそんな七瀬の問いかけも耳に入らないまま優馬は首を振り続け、それを止めてからもなお荒い呼吸に喉を鳴らしている。

「思い出したくないこと思い出した」

 意識を向けたのはほんの一瞬のことだった。にも関わらず、脳裏にあの日の情景が浮かんできたのだ。

 淵の高い崖に響き渡る品のない笑い声、自分を無遠慮に見下ろすいくつもの視線。
遠ざかってゆく意識の中で微かに感じたそれらは、けれども消え去るどころか幾重にも増幅して優馬の記憶の中に留まり続けている。ここまで何とかやり過ごせていたものが、七瀬が話題にしたことによって一気に蘇って来たのだ。

「優馬? ……大丈夫?」

 七瀬がすぐ隣りにしゃがみ込み肩に手を置くと、苦しげに息せききらせたまま優馬は辛うじてうなずいた。

「ごめん。私が余計なこと言ったから。ううん、そうじゃない。私が無理に連れてきたのがいけなかった」

「大丈夫。もう慣れた」

「慣れたって、そんな」

 優馬の極めて簡潔な一言に、七瀬はかけるべき言葉を見失う。何度か口を開きかけたものの結局何も言いだせず、あとはただ真剣な表情で優馬を見つめていた。

 七瀬とは別に、優馬もまた言葉には出せない想いを抱いていた。

 自分を貶める言葉が湧き水のように溢れてくるのを感じながら、自分とは対照的な七瀬のあり方を思っていた。

 決然としていて迷いがなく、誰に対しても堂々と立ち向かう。そんな七瀬の姿を心から眩しいと感じていた。外見がどうこうではなくあり方そのものが比類なく眩しかった。だからこそ、どうしようもなく憧れた。

 ──そりゃ僕だって……僕だってそうありたいんだよ。

 声には出さず自分だけに打ち明ける。七瀬への率直な憧れを、心の中で確かめる。
 項垂れていた顔を上げると、七瀬がすぐ目の前にいる。自分をただ真っ直ぐに見つめている七瀬が。

 心強かった。
 
 全身から力が湧いてくるようだった。七瀬がいれば、きっと自分は挫けずにいられる。そんな気がした。

 ふと気付いてみれば、それまで優馬の中にわだかまっていた悪意は完全に消えていた。滝の轟音と蝉しぐれに耳を澄ましているだけで、どこまでも心が透き通っていくようだった。

 ──大丈夫。きっとやれる。

 追い風を受けるような気持ちを抱いて、優馬は再び立ちあがった。自分を貶めようとする声のことなど、気にならなくなっていた。

「じゃあ、始めるから」

 地蔵を前に、優馬は七瀬に向けて手を伸ばした。

「……うん」

 七瀬がおずおずと優馬の手を握り返したところで、優馬は地蔵の肩に手を触れた。
 
 と、その時だった。

 優馬と七瀬は、自分の体が勢いよく回転する感覚に襲われた。柔道の投げ技を食らうようだった。咄嗟のことではあったが、優馬は必死に腕を伸ばし受け身を取ろうと試みた。が、受け身を取るどころか地面に触れることすらできないまま、ドラム型乾燥機にでも放り込まれたようにぐるんぐるんと振り回された。

 さらには回っているうちに感覚が薄れ、やがて意識を失った。