伊吹「あぁ……これから仕事だって言うのに。
  もっとセーブすべきだったわぁ」


額を押さえる今朝の私は、昨日のヤケ酒のせいで完全二日酔い。
気だるい全身を無理矢理動かして自転車をこぐ。
幼稚園へ出勤する前、いつも通りに近所のコンビニに立ち寄る。
ガンガンする頭を静めるため、
『飲めばはきけ・二日酔いのむかつきに効く』とキャッチフレーズのついた、
45ml10kcalの栄養ドリンクをしぶしぶ飲みほした。



伊吹「うっ。苦っ!
  まずい……もう一本って。ならないわね(苦笑)
  本当にこれ1本で二日酔い治るのかい?」


そこからまた自転車をこぎ、朝日が柔らかく照らす土手沿いの道を走る。
爽やかな風は熱る頬に当たると心地良く、
萎えた気持ちまでほぐしてくれそう。
ちょっとだけ楽になった私は数分後、
職場につくと玄関わきに自転車を止めた。
お決まりの朝礼が始まり、元気でやんちゃな園児たちをお迎えして、
今日も、伊吹先生の始まりだ。


私の受け持つクラス30名の園児を前に、オルガンを弾きながら歌う。
クレヨンを持ってお絵かきしたり、粘土こねこねを手伝いしたりする。
二日酔いを作り笑いで隠し、
子供たちやその親に陽気で優しい先生を演じるんだ。
そして仲間である先生たちとも何のトラブルもなく、
無事に平和な1日を終えた。
帰り支度をして自転車のキーを差し込んだところで、
主任先生である真知子先生から声をかけられた。
彼女はこの園ではいちばん仲のいい先生なのだ。


真知子「伊吹先生。ちょっといい?」
伊吹 「ええ、いいわよ。何かあった?」
真知子「突然なんだけど、
   遠藤先生がうちにくることになったらしくて、
   来週月曜日から園にくるわよ」
伊吹 「えっ……どうして。
   今度来るのは新卒の先生だって聞いたわよ」
真知子「そうなんだけど、
   八重子先生が産休に入るからその代理に園長が呼んだの。
   きっと園長が近藤先生に泣き入れて頼み込んだのよ」
伊吹 「えーっ」
真知子「伊吹先生には早めに伝えたほうがいいと思ってね。
   心の準備しといたほうがいいわよ。
   じゃあ、また明日ね。お疲れ様!」
伊吹 「え、ええ。
   教えてくれてありがとう。お疲れ様。
   はぁ。なんでまた洋佑がここに来るのよ……」


やっと二日酔いのむかむかと頭痛が治まったと思ったのに、
今度は別のムカムカと頭痛が始まる。
遠藤洋佑(えんどうようすけ)なる人物は、
3年半前に別れた3つ年上の元カレ。
男性の幼稚園教諭なんて珍しく、
しかもこの園では同期だった洋佑に親しみを感じていた。
そしてある日、
彼に告白されたことで二人の付き合いは始まったのだけど、
私と別れたのを機に彼はいきなり園を辞めた。
別れの原因は私の心変わり。
ある人との出会いがきっかけで、
私たちは喧嘩が絶えなくなり、1年3か月の付き合いを終えた。
だから彼が園に来るのはとても気まずいわけで、
と言っても、私がすべて悪いんだけど。


伊吹「なんなのよ……洋佑ったら。
  いくら園長から頼まれたからって、断ればいいじゃない。
  あぁ……仕事がやりにくくなるな」



私はどんよりした気持ちのまま、
自転車を走らせて帰宅ルートである土手の小道に出た。
暫く走ると今日も居た。
私の心変わりの原因が……


彼はカメラを首にかけ、時々飛んでくる鳥を撮影しながら、
土手のいつも決まった場所にイーゼルを立てて油絵を描いていた。
天気のいい日の夕方はいつもここに居る。
彼は私の心を一瞬でとらえた人。
そして、今でも片思いの人。
川辺冬季也(かわべときや)35歳。
職業は大学教授。
私は自転車から降りて押しながら、
彼の居る場所にゆっくり差し掛かる。
そして動揺を隠しながら彼に近寄って、
いつもより少し高い声で挨拶をした。
冬季也さんは私の声に振り返り、
いつもと変わらずにっこり微笑む。



(東京、荒川河川敷)


伊吹 「こんにちは」
冬季也「やぁ。今帰り?」
伊吹 「はい。
   あの、今日はいいの、撮れました?」
冬季也「今日はね、
   カイツブリとアマサギが綺麗に撮影できたんだ。
   特にあいつらは夏に近づいてくると、
   頭や胸がオレンジ色に変わってくるからね。
   これからもっといいのが撮れそうで楽しみだよ」
伊吹 「そうなんですね。
   お写真できたら、また見せてくださいね」
冬季也「うん。
   今度欲しいのがあれば、引き延ばして伊吹ちゃんにあげるよ」
伊吹 「はい!楽しみに、してます……」
冬季也「……ん?
   僕の気のせいかな?
   なんだか元気がないね」
伊吹 「えっ。いいえ、冬季也さんのせいじゃないですよ。
   実は……ちょっといろいろあって考え事をしてて」
冬季也「考え事?何か悩んでるの?
   あっ、もしかして彼氏のこと」
伊吹 「彼氏なんていませんよ!
   し、仕事でちょっと……」
冬季也「そっか。
   僕も教え子のことでは頭を悩ませることがあるよ。
   伊吹ちゃんは教育者だし、幼稚園児相手だしね。
   なかなか小さい子だと大変だろうね」
伊吹 「はい……
   (あぁ。違うっつーの!
   私が悩んでるのはあなたのせいでもあるのよぉ。
   えーい!この際思い切って聞いちゃうか)
   あの。冬季也さんは彼女とか居ないんですか?」
冬季也「ん?彼女?
   僕の今の恋人はカメラとこのキャンバスだね。
   仕事を終えてここで野鳥を撮って、
   絵を描いてる時がいちばんほっとするから」
伊吹 「えっ。でも……
   冬季也さんは背も高くて、ルックスもこんなに素敵で。
   知性あって、いろんなことにも博識があるのに、
   彼女がいないなんて信じられないです。
   学生さんとか職場の女性から、
   お付き合いを申し込まれたりってないんですか?
   例えば、その……
   『ずっと冬季也さんのこと好きでした』って告られたり」
冬季也「えっ。あははははっ(笑)
   一度もないなぁ。
   そういうのがあれば嬉しいんけどね。
   伊吹ちゃんがそういう風に言ってくれたら幸せだなぁ」
伊吹 「えっ。
   (ほらぁ……このパターン。
   これで私はハートを打ち抜かれたのよぁ)
   あはっあはははっ(苦笑)そうですねー。
   それなら本当に告ちゃおうかな」
冬季也「うん(微笑)
   こんなおじさんで良かったらいつでも待ってるよ」
伊吹 「またぁ。
   冬季也さんは、おじさんなんて年じゃないでしょ?
   それに、冗談がお上手なんだから。
   そんなこと言ったら本気にしちゃいますよ。
   (しかし、冬季也さんのその言葉。
   どこまで信じたらいいのやら)」



私ったら何やってるのか、何故か心とは裏腹な自分がいる。
ただ単に調子がいいのか鈍感なのか、
それとも私の言葉に合わせた社交辞令なのか、
まさか本気の本気なのか。
彼の口から発せられた一語一句に神経を集中させすぎて、
またも何気ない一言に落ち込む。