「母のことはもちろん、私の存在も忘れちゃってるんじゃないかと思うような父親だった。でも、私の五歳の誕生日のときには、ぬいぐるみを買ってきてくれた」
白い犬のぬいぐるみだったという。
「あの頃、幼稚園で友達が犬を飼いはじめてね、私も飼いたいって騒いだらしいの。全然覚えてないんだけど」と彼女はちいさく笑う。
僕は家族三人の暮らしを想像してみる。泣いて犬を欲しがる娘の誕生日に、犬のぬいぐるみを買ってきた父親。誕生日ケーキを囲み、幼い彼女がロウソクの火を吹き消す。娘のためにバースデーソングを歌っていた父親が、いつしか家庭を顧みなくなる。
「父親が私のことを思って買ってくれた、唯一のプレゼントだったんだよね」
リアルな作りだったその犬は、ぬいぐるみの愛らしさより本物の犬の精悍さのほうが強調されていたらしいけれど、それがかえって彼女に父性を感じさせたという。
「それがなくなって、びっくりするくらいショックだったの。離婚したって聞かされたときよりもずっと」
彼女の声が細くなる。
「あのぬいぐるみは、私とお父さんの、唯一のつながりだったんだなって、今になってすごく思って……」
僕は身体を起こした。背中を丸めている彼女から目をそらし、眩しいほどの空を見る。迫力たっぷりに僕たちを見下ろしていた入道雲が、少しずつ形を変えていた。
「形があるものは、いつか壊れるんだよ」
それは人間も例外ではないと思った。人の命がいつか尽きるように、さまざまな物質にも寿命がある。



