顔がぐっと近づく。ブラックホールのような穴に今にも飲み込まれそうで、私はさらに身体を引く。口の中がからからに乾く。
「瑞穂ちゃん? あなた具合が悪いんじゃ」
「触らないで!」
掴まれた腕を振り払って、私は駆け出した。後ろでおばさんの声がする。背中に感じる視線が恐くて、角を曲がるまで息もできなかった。
通りを走りながら既視感に襲われる。このあたりにはマンホールにも街路樹にも歩道にも、いたるところに母の気配が残っている。
買い物袋をさげ並んで歩いた通り、商店街の小さな百円ショップ、痩せれば美人かもしれないと母をからかいながらコロッケをおまけしてくれたお肉屋さんと、これでも若い頃は可愛かったんだからと反論していた母。見知ったはずの顔はどこにもない。懐かしい場所なのに、そこにあるのは穴のあいた顔だけだ。
「お母さん」
無意識に口の中で唱えていた。迷子の子どもが母親をさがすように、懸命にあたりを見回す。太った柔らかなお腹に顔を埋めるのが好きだった。大きく笑う姿が好きだった。働き者だけど家事は苦手で、私のつくったものをいつも美味しそうに食べてくれた。
母の表情は明るく、くるくるとよく動いた。
「お母さん……どうして?」
母はいつも正しかった。私のなかの正義だった。
記憶に残った朗らかな笑顔が、理香子さんの形相と悲鳴にかき消される。母の優しい笑顔が、真っ黒に塗りつぶされて穴になっていく。
信じていた世界が、火にあぶられた写真みたいに、端っこから焼け焦げる。ちりちりと炎を上げ黒い煙を立ち上らせて、灰になっていく。



