「えー、やだー」


まだ帰りたくないのに。

俊さんは私の拒否などお構いなし。
アトリエの入口付近にあるフックに掛けてあるカギを手に取った。
本気で私をここから追い出すつもりらしい。
ぷぅと膨れっ面をしてみたところで、顔色ひとつ変えなかった。

俊さんはいつも飄々(ひょうひょう)としていて、気持ちに浮き沈みがあるところを見たことがない。
一般的な人のバイオリズムは波を打っているだろうけど、俊さんのそれは、“高い”と“低い”の中間地点に直線が延々と続いているように感じる。
喜ぶこともなければ、怒ることもない。
少なくとも私の知っている俊さんは、そんな人だ。


街に隣接する小さな森の中。
自宅から歩いて十分ほどのところにある俊さんのアトリエであるここに、私は頻繁に通っていた。

そもそものきっかけは、一年ほど前のことだ。
やっぱりその日も、今日みたいに雪のちらつく夕方だった。

お母さんとケンカをして家を飛び出し、私は森に分け入った。
子供の頃にはお父さんとよく散歩したこの森に来たのは、十年ぶりくらいだったろう。
ケンカの原因は、思い出せないくらいだから些細なことだったと思う。
勢いで家を出て、気の向くままに歩いた先が森だったのだ。