「翠ちゃんてば、そんな恥ずかしがってないでもっとアピールしなきゃだめじゃん」

 勝手に勘違いしてくれている千恵美ちゃんに不審に思われないように、強張った笑顔を顔に貼りつけながら、あたしは何度も心の中で思っていた。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。

 このまま……なんとか、このままやり過ごしたい。

 夢のことも、坂井君の存在も、なにもなかったみたいにやり過ごして、何事も起こらない毎日を過ごしたい。

 それが一番いい。そうすれば誰も傷つかない。

 せっかく閉じている蓋を開けてしまってはだめ。

 だって傷つきたくない。傷つけたくないの。だからお願い。どうか神様、そう過ごさせて……。

「あーあ、坂井君行っちゃったよ?」

 千恵美ちゃんのその声に、ガチガチに固まっていた肩からふっと力が抜ける。

 あたしは自分がまったく呼吸をしていなかったことに、ようやく気がついた。

 小刻みに胸を膨らませて懸命に息を吸い込みながら、ギクシャクと振り返って廊下を見れば、そこに坂井君の姿はもうなかった。

 でもあたしの目は、見えないはずの彼の姿が見えていて、あたしの耳は、聞こえないはずの彼の足音が聞こえている。

 彼は、いる。たしかにいる。

 どんなにあたしが目を逸らしても、やり過ごしたいと願っても、あたしが不思議な夢を見るという現実は変わらず、そして坂井望という存在は、いる。

 いるんだ……。

 保護メガネの上から左目を押さえながら、あたしは自分の背中に浮かんだ汗が、どんどん冷えていくのを感じていた。