ここは薄暗くひんやりしているけど、茜色の路地は明るく、暖かそうに見えた。
奏は私に背を向けると、通路を出て光の中に消えていく。
私はまだ立ち上がることができないままに、赤い顔でバッグを抱えて考え込んでいた。
次はキスじゃ済まないって……。
奏は私が嫌がると思ってキスしたのかと気づく。
嫌じゃないよ。
むしろ、ファーストキスの相手が奏で、嬉しいくらい。
そこに愛情がないのは寂しいけれど……。
その夜、ベッドに入る前に机の引き出しを開け、宝箱を取り出した。
六角形のピアノ部屋の鍵を手の平に乗せ、しばらく眺めてから握りしめ、そのままベッドに入った。
扉だらけの白い世界に行きたい。
奏が教えてくれないのなら、管理人に聞いてくる。
ピアノを辞めた理由を……。
心は白い世界を信じる方へ、傾いていた。
それは今日、奏が扉という言葉を口にしたからだ。
五歳の私のことを『覚えてる』と言ってから、彼はこんな言葉を付け足した。
『記憶の扉を固く閉ざして、思い出さないようにしてたのに……』
心を切り離してあの部屋に閉じ込めているという自覚があるのかもしれない。
その自覚が、意識の表面に現れないだけで。


