廊下の壁に背を預け、こっそり聞き耳を立てている私。
左横の教室の入口から、長い足が一歩、廊下に踏み出すのが見えて、その直後に奏が私に気づいた。
あ、マズイ……立ち聞きしていたのが、バレちゃった……。
そんな焦りもあるけれど、それよりも寂しさを強く感じているから、目を逸らせなかった。
ピアノへの情熱を失ったら、他にやりたいことはなにもないのだろうか……。
大学に行かずに就職することは、悪いことじゃない。
むしろ、早く親元を離れて自立したいという気持ちは立派だと思う。
でも奏の場合、そこに前向きさが感じられない。
クラスに馴染もうとしないのも、私と仲良くしてくれないのも、就職希望なのも、全てが"ひとりにしてくれ……放っといてくれ……"という思いから出たもので、さらに言うと、ピアノから逃げるためなのではないかと、深読みしてしまう。
私に気づいた奏は、廊下に二歩目を踏み出して足を止めた。
茶色の綺麗な瞳を悲しげに見つめてしまったら、気まずそうにフイと目を逸らされ、背を向けられた。
長い足は徐々に速度を上げ、逃げるように私から遠ざかって行く。
アッチェレランド……次第に速く……。
どうして、逃げるんだろう。
どうして、なにも教えてくれないんだろう。
彼にぶつけられない質問が、心の中に繰り返す。
楽譜を見る限り、簡単そうなのに、私の小さめの手では指が回らずに、うまく弾けない……そんなフレーズを、繰り返し練習しているような、やるせない気持ちがした。


