奏 〜Fantasia for piano〜


五歳の奏は確か、ドからラまで楽に届いていた。

私はドからソまでがやっとで、小指が攣りそうになっていたのに。

今は……十一度、ドからファまで届きそう。

ピアニスト向きの手をしているんだよね……。


手を重ねたまま、考えの中に沈んでいたら、ギュッと握られて驚いた。

でも、すぐに離され、引っ込められて、呆れたような声で言われる。


「昔のことは、覚えてないと言ったはずだよ。
チャイム鳴ってるから、席に戻りなよ」

「うん……」


茶色の瞳はもう、私を見てくれなかった。

チャイムよりも、そのことを残念に思い、すごすごと後ろの席に座った。


すぐに英語の女性教師が入ってきて、五時間目の授業が始まる。

数学の二の舞にならないように集中しなければと思っても、目の前の白いワイシャツの背中を見ていると、どうしても頭が奏でいっぱいになってしまう。


『昔のことは、覚えてないと言ったはずだよ』


本当に覚えてないんだよね?

私との想い出をスッポリと切り離して、白い扉の向こうに閉じ込めているわけじゃないよね……?