奏はどうしてこの曲を選んだのだろう?
奏の技術を審査員に伝えやすいのかもしれないけど、私はもっと明るい曲を聴きたい。
楽しく無邪気にピアノを弾いていた幼い彼の印象が強いせいか、奏には明るい曲の方が似合うのにと思ってしまう。
奏の真横に立ち、目を瞑って悲しい旋律に耳を澄ます。
心の中に暗雲が垂れ込み、不安の雨がしとしとと降り始めた。
なにか嫌な感じがするのは、暗い曲のせいなのか?
そのとき、ふと、なにかの気配に気づいて目を開けた。
なんだろう……客席に、なにか異物が混ざりこんでいるような……。
薄暗い会場に目を凝らすと、審査員席の端の方に、ステージに忍び寄る黒い影を見つけた。
私以外の誰も、黒い影には気づいていない。
客席からは話し声も物音ひとつもなく、みんな、奏の奏でる悲哀の世界に引き込まれている。
ゆっくりと近づく黒い影は、ステージに手をかけ、のっそりと這い上がる。
そしてライトから外れたステージの端で、ゆらりと立ち上がった。


