入口で友人らしき男性が奏に親しげに話しかけてきて、ふたりは会話しながら歩き出した。
椅子や丸テーブルが置かれたロビーを抜け、廊下を進む。
一階の廊下の曲がり角に差し掛かると、奏だけが足を止め、友人は手を振り去って行った。
奏が立ち止まったのは十一番の番号が付いたドア前で、開けて中に入って行く。
私は目の前で閉められたドアを幽霊のようにすり抜けて、奏に続いた。
この部屋はピアノのレッスン室のようで、グランドピアノがニ台並んでいる。
奏は端にある机の上に鞄を置くと、楽譜を手にピアノの椅子に座り、壁掛け時計をチラリと見た。
「先生、遅刻かな。
まぁ、いつものことか……」
独り言は日本語で。小さく溜息をつくと、「よし」と気合を入れて、鍵盤に指を乗せた。
この曲は、私の知らない曲。
冒頭からではなく途中から弾き始め、同じフレーズを何度も繰り返し練習している。
時々鍵盤から手を離し、鉛筆で楽譜に書き込みもしていた。
奏の先生の登場は、それから十五分も経ってからのこと。
白髪交じりの初老の男性で、もう一台のピアノの椅子に座ると、フランス語でなにやら遅刻の言い訳をしているような雰囲気だった。


