そして私はというと、神道社長からのオファーを断り、
福岡県糸島市にあるゲストハウスで働く決断をした。
これが母から勧められた仕事。
母の遠い親戚にあたる茂三おじさんと、
今年80歳になる恒子おばあちゃんが経営する「なごみ」は、
お孫さんの敦くんと三人でこなしてる。
自家菜園で採れた野菜や、地元の魚や卵を使ったお袋の味は評判で、
宿泊も3500円とリーズナブルな為、若い人には人気の宿。
しかし、おじさんが病に倒れ、今年いっぱいで閉める予定だった。
それを知った母が、私にやってみないかと話したのだ。
(福岡県糸島、ゲストハウス『なごみ』)
恒子「きらちゃん。これも頼むよ」
星光「はい。つねばあちゃん、がめ煮できたからね。
今日の宿泊は3人でよか?」
恒子「ああ、よかよ。
5時半には着くらしいったい」
星光「わかった」
恒子「それから昼間、
宿泊したいって男性から連絡がきとったけどね」
星光「そう。じゃあ、少し多めにご飯は炊いておくから」
恒子「ありがとうね。
きらちゃんが来てくれたお蔭で本当に助かるわぁ。
敦と二人じゃ、仕事もはかどらんとよ」
星光「うん。私もちょうど失業中だったし、
お料理作るの好きだからね(笑)
つねばあちゃん、少し休んでて。
あとは私がやっとくから」
恒子「ありがとう。
じゃあ、お願いしようかね」
星光「うん」
何故、私がこの「なごみ」で働く決心をしたのか。
あれだけ嫌だった濱生家を出て東京へ来たのに、
両親から離れてまた福岡へ戻る選択をしたか。
それは糸島に唯一、北斗さんとの想い出があるから……
糸島、二見ヶ浦 。
「なごみ」の裏にある丘で北斗さんは撮影をしていた。
その景色がどうしても目について離れなかったからだ。
彼とテントを張って、ふたりきりで過ごした一夜限りのプチキャンプ。
彼の入れてくれたインスタントドリップコーヒーと、
夜中にすすったとんこつのカップラーメン。
何故かここに居ると、彼の優しい懐に抱かれているような、
不思議な安心感があるのだ。
私は、目の前に広がる玄界灘の潮風を全身に浴びて、
北斗さんとの想い出を振り返っていたのだ。
敦 「きら姉ちゃん」
星光「ん?何?」
敦 「お客さんだよ」
星光「私にお客って…」
敦 「背の高い男の人だったけど、姉ちゃんの男?」
星光「んなわけないでしょ!でも誰…」
“背の高い男の人”と聞いた瞬間、
はっきり自分で聞き取れるほど私の心臓の鼓動は早くなる。
もしかしたら北斗さんが訪ねてくれたのかという、
限りなくゼロに近い仄かな期待がふっと浮かんだから。
まったく見当のつかない来客に戸惑いながらも、
男性の待つ玄関へ向かったのだった。
(続く)
この物語はフィクションです。

