東さんから言い渡された予想外の辞令は、
北斗さんの未来のビジョンを分厚い氷に覆われた完全凍結地帯へと変える。
北斗さんのみならず、流星さんや浮城さんたちをも騒然とさせた。
あの凍りついた夜から数日後、
流星さん夫婦の日常は、仕事の引き継ぎや引っ越しの荷造りで慌ただしくなる。
そして、北斗さんは京都で撮影した私の画像編集を進めながら、
フランスへ行くための準備と身辺の整理をし始めた。
まだ心に大きな蟠りを抱えたままで……



(スターメソッド3階、D・B・P撮影部オフィス)


流星「兄貴、すまない。
  福岡の打ち合わせの都合でどうしても休めなくて。
  涼子のこと頼むよ」
七星「いいよ。
  病院に連れて行くだけなら仕事の途中でもできるんだ。
  安心して福岡へ行ってこい」
流星「うん。恩に着るよ」
七星「ああ」
流星「兄貴。本当にいいのか?
  日本を出る前に星光ちゃんに逢わなくて」
七星「今更、彼女に逢って何と言う。
  数日後にマルセイユに行く男に何ができるんだ」
流星「あーっ。じれったいんだよ。
  兄貴の悪い癖だぜ。
  頭で恋愛してないで行動に移せよ。
  やってみなきゃ結果なんてわからないだろ?
  彼女を愛してるなら『俺についてこい!』って言っちゃえよ」
七星「お前と僕は違うんだ。
  それにガキの恋愛か?
  そんな無責任なこと言って、彼女の現実の生活はどうする。
  何の心の準備もできてないんだぞ。
  それに……やっと本当の家族に会えたんだ。
  僕の都合で彼女の平穏を壊すことはできない」
流星「兄貴。
  俺は、星光ちゃんの気持ちも少しは考えてやれって言ってんだよ!」
七星「流星。くどいぞ!」


コンコン!(ドアのノック音)


光世「ん?兄弟で何を揉めてるんだ」
七星「いや、なんでもない」
光世「七星。できたか?」
七星「ああ。いつでも製本に出せる」
光世「行く前に間に合ってよかったな」
七星「ああ。後は頼んだぞ」
光世「分かった。出来上がったら送るからな」
七星「ああ」
流星「東さん。神道社長はもっと温情のある人だと思ってたけど、
  うちのチームだけみんなバラバラにして、どういうつもりですか」
光世「それは会議の時にも話しただろ。
  “四季”の撮影を最優先させたからだ。
  変更になったのはうちだけじゃなく社全体だ。
  1年は我慢しろ」
流星「まったく。俺の場合は1年じゃすまないだろって」
七星「流星。いいかげんにしろよ」
流星「はいはい。文句言わずに上に従えだろ?
  つまらん。撮影に行ってくる」


流星さんは申し渡された辞令にやはり納得がいかないようで、
悪あがきにも似た不満を東さんや北斗さんにぶつけて出かけていった。
それは北斗さんと私のこれからがどうしても引っかかっているからで、
流星さんの態度から東さんもそれを敏感に察している。


光世「もしかして、彼女のことか」
七星「いや。なんでもないから気にしないでくれ」
光世「七星。星光さんのことだが、また声をかけてやったらどうだ」
七星「また?それは勝浦のことを言ってるのか?」
光世「そうじゃないんだ。
  実は京都の後、
  神道社長が彼女にうちの新しい仕事の斡旋をした」
七星「えっ(驚)それで彼女はなんと」
光世「断ってきた。
  なんでも、母親から頼まれた仕事を受けるとかで」
七星「そうか……」
光世「だからお前がフランスから帰国したら、
  きちんとした形で星光さんをうちの会社へ」
七星「光世。彼女のことはもういい」
光世「七星。勝浦の件や今回のことで、
  お前や星光さんには辛い思いをさせてしまったが、
  僕らはお前の今後を考えて決めてることなんだ」
七星「それはわかってる。
  でも星光ちゃんのことはそっとしといてくれ。
  今は、KTSの仕事だけに集中したいんだ」
光世「七星……そうだな。
  これ、早速製本に回すからな」
七星「ああ。頼む」


流星さん同様、北斗さんの力になりたいと気に掛ける東さんだったが、
マルセイユ行きが決まってからの北斗さんの心は頑なで、
誰の言葉にも耳をかさない状態だった。
その姿は、私に触れることを恐れているようにも見てとれた。




そして、翌日のこと。
北斗さんと涼子さんは新宿にある大学病院本館の2階、
循環器内科外来フロアにいた。
涼子さんは元気のない彼の様子を心配そうに見つめ、
名前を呼ばれると北斗さんに声をかける。


看護師「北斗涼子さん」
涼子 「はい」
看護師「診察室にどうぞ」
涼子 「はい。カズお義兄さん。行ってくるね」
七星 「ああ。一階の総合待合室で待ってるよ。
   わからないことがあったら、高橋先生に聞くんだよ」
涼子 「うん」


(新宿、大学病院本館1Fフロア)


北斗さんは、涼子さんが診察室に入っていくのを見届けると、
エレベーターに乗って一階へ向かった。
待合室に着くと長椅子に深く腰かけ、
凭れたまま溜息をついておでこに左手を押し当てる。
そしてその目は、受付でごった返す人々をじっと見ているけれど、
焦点が合っていない。
暫くして、疲れきったように俯く北斗さんの背後から、
穏やかで落ち着きのある声がして、
慌てて立ち上がり振り返ると声の主を確認した。



美砂子「北斗さん?」
七星 「はい(驚)あっ、古賀婦長」
美砂子「やっぱり北斗さんだった。
   もしかして、涼子さんの付き添い?」
七星 「はい」
美砂子「弟さんから高橋先生の診断書の件で連絡を貰ってたんですよ。
   弟さんご夫婦、福岡にお引越しされるんですってね」
七星 「はい、突然なんですけどね。
   本当に長い間、涼子が大変お世話になりました」
美砂子「弟さんが遠くに行っちゃうと、北斗さんも寂しくなるわね」
七星 「はい。まぁ」
美砂子「北斗さん、お話ししたいことがあるの。
   少しお時間ある?」
七星 「はい。実は僕も婦長にお話があって」
美砂子「そうなの?もしかして類似した内容かしら?(微笑)」
七星 「そうかも、しれませんね(笑)」


母は北斗さんと待合室に隣接している中庭の見える休憩室へ入ると、
自動販売機でカップコーヒーを買い、
窓際の席で向かい合わせに腰かける。
浮かない顔の北斗さんとは対照的に、
コーヒーを差し出す母はとても嬉しそうに彼を見た。


美砂子「話というのは、星光のことなの」
七星 「はい。実は、僕もそうなんです」
美砂子「そうなのね(微笑)
   私からお話ししたほうがいいかしら?」
七星 「はい」
美砂子「せっかく北斗さんに薦めてもらったお仕事を突然辞めてしまって、
   星光がご迷惑おかけしたみたいでごめんなさい」
七星 「いえ、それはこちらのほうです。
   彼女が安心して働ける環境を、
   僕が提供できなかったので本当に申し訳ないです」
美砂子「それに……北斗さん。
   本当にありがとうこざいます」
七星 「古賀婦長?」
美砂子「星光に聞いたんですよ。
   福岡で、あの子が身投げしようとしたところを、
   北斗さんに助けられて、貴方の勧めで東京にきたこと。
   大切なカメラを投げ捨てて、捨て身で救ってくれたんですね」
七星 「いや(照)それは……」
美砂子「北斗さんのお蔭で、私たち親子は25年ぶりに再会できて、
   今では同じ屋根の下で住むことができたんです。
   貴方が星光を見つけてくれなかったら、
   あの子は今この世に居なかったの。
   何度お礼を言っても足りないくらいです」
七星 「いえ(焦)お礼なんて、そんなことは」
美砂子「貴方が居てくれることが、
   あの子には何より心の拠り所だと思います」
七星 「そんなこと。
   僕はまだ彼女に何もしてあげられてないんです」
美砂子「北斗さん。単刀直入にお聞きしていい?」
七星 「はい」
美砂子「北斗さんは星光とのこと、どう思ってらっしゃるの?」
七星 「どう思って……
   彼女のことはとても大切にしたい人だと思ってます。
   今もこれからも。
   彼女は僕をどう思ってるかわかりませんが、
   僕は、彼女と同じ道を歩きたいと今でも思っています」
美砂子「そう」
七星 「だけど……悩んでもいます」
美砂子「悩んでる?」
七星 「はい。
   彼女が縋りたいと思うときに、どうすることもできないからです。
   僕は、もうすぐ日本を離れてフランスへ行くんです」
美砂子「フランス」
七星 「婦長。僕は、どうすればいいんでしょうか。
   どうすれば、
   星光さんを安心させてあげることができるんでしょうか。
   彼女を焚きつけた張本人なのに何もできない。
   本当に情けないです……」
美砂子「情けないの?」
七星 「はい」
美砂子「北斗さんはとても大きなお仕事をなさってる人なんですもの。
   私達と違って、思うように動けないことだって多い仕事で、
   周囲のことやご自身のことでも、いろいろ事情がお有りでしょう。
   そんな中でも、貴方は星光のことを考えてくださってる。
   それを情けないと思うことはないと思うわよ」
七星 「婦長」
美砂子「それに。
   貴方の心が星光だと決めてくれたなら、
   心のままでいいんじゃないかしら?
   あの子のことを好きでいてくれて必要だと思ってくれているなら、
   どんなことが待ち構えていようと、体を動かして逢いに行く。
   そして思いの丈を言葉にして、相手に伝えることを恐れない。
   貴方の心に抱えてるもやもや感をすっきりさせるのは、
   それに尽きると思うのよ。私は」
七星 「それに尽きる……」
美砂子「現実的な問題は、後からでも何とかなるものよ。
   頭で考えたって何も感じとれないし、何の回答だって出てこない。
   喉から手が出るほど欲しいなら、手を伸ばして掴まないと。
   あの子も心の中ではそれを望んでいるわ。
   いつかまた、北斗さんと逢って笑顔で居られるってね。
   私の言いたいこと、理解してもらえたかしら?」
七星 「はい」
美砂子「本当に頼りなく情けないのは、北斗さんでなく私たちの方で、
   小さい星光を他人に預けて、
   あの子の成長期に傍に居てやれなかった。
   あの子は立派に自立して強い子に育ってくれて救われましたけど、
   どんな理由があったって愛する我が子を手放すべきではなかったと、
   今でも後悔していますよ。
   だから貴方にも後悔してほしくない。
   私と主人はそんなに長くはあの子の傍に居られない年になりました。
   これから先のあの子の人生を見守ってやってほしいんです。
   北斗さん。星光のこと、どうかお願いします」
七星 「婦長。頭を上げてください。
   あの、僕で何処まで彼女の力になれるかわかりませんが、
   こちらこそ、宜しくお願いします」
美砂子「ありがとう(笑)
   あーっ。貴方にお話ししたら安心したわー。
   あの子ね。ずっと貴方の写真集を抱えて眠ってるのよ。
   本当に北斗さんを思っているのね」


母の温かくも的確なアドバイスは北斗さんの本音を引き出し、
マルセイユ行きを決心してからの凍った心をほんのりと溶かした。
しかし、母から後押しとも言える言葉を貰った現状でも、
私との未来にどう向き合うべきか戸惑っていたのだった。

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