その夜、一度ベッドに入ったものの私は寝付けず、
同室のいちこさんを起こさないようにそっと部屋を出る。
この三日間はエキサイティングな出来事の連発で、
当然私の神経は冷静で居られるはずもない。
お酒の一杯でも飲んで、
この溜りたまったうっぷんをすぐにでもぶちまけて、
綺麗さっぱり払拭したい心境なのだ。
リビングに下りるとまだ明かりが灯っていて、
根岸さんがひとり黙々とパソコンに向かって作業をしていた。
私が声をかけると、彼は顔を上げる。
その顔には浮城さんに殴られた時の傷が痛々しく残っていた。
星光「お疲れ様です」
根岸「おお、お疲れさん。
どうした。眠れないのかい?」
星光「は、はい。喉も乾いちゃったし。
まだお仕事してたんですか?」
根岸「ああ。昼間だと撮影もあって集中できないから。
それに、どうしてもこれだけは今夜中にやっておきたくてね」
星光「そうですか」
私は、根岸さんの仕事熱心な姿を見ながら、
冷蔵庫からお茶を取り出し、
食器棚のクリスタルグラスを取ろうとした。
しかしうっかり手を滑らせてしまいグラスを割ってしまう。
その音に驚いた根岸さんは作業の手を止め、
キッチンへ来ると私に声をかける。
そして心配そうな表情を浮かべながら屈むと、
片付けるのを手伝ってくれたのだ。
根岸「おい、大丈夫か?」
星光「す、すみません。うっかりして」
根岸「指、切るなよ(割れたグラスを拾う)」
星光「はい……」
根岸「大丈夫かい?七星さんのこと」
星光「えっ!」
根岸「あぁ。夏鈴から聞いたんだ、君たちのこと。
今朝はいきなりのチーム編成で驚いたろ」
星光「ええ、まぁ。
あの……根岸さんは大丈夫ですか?」
根岸「ん?どうしてそんなことを聞く?」
星光「なんとなくです。
今日一日ずっと悲しそうな顔をしてたように見えたから」
根岸「そうか?
君も、俺に負けず劣らずしけた顔してたけどな(笑)」
星光「あははっ。そうですか?」
根岸「ああ」
根岸さんは拾ったガラスをキッチンのゴミ箱に捨て手を洗う。
私は雑巾で床を拭いて片付けながら、
森でのカレンさんとの出来事を思い出し、
少し躊躇いながらも彼に質問を投げかけた。
星光「あの、聞いてもいいですか?」
根岸「俺で応えられることならいいよ」
星光「昨日話していた事故のこと。
森で、カレンさんを救ったっていう……」
根岸「ん?」
星光「すみません。
聞くつもりはなかったんですけど、
夏鈴さんからも別れた時のことは少し聞いてたもので。
二人が別れた原因にカレンさんが絡んでるんですか?」
シンク台に凭れていた根岸さんはちょっと困った表情をしていたけれど、
私の真剣に見つめる顔を見て、観念したように答えてくれたのだ。
根岸「ふっ(笑)夏鈴もそうだったけど、
君までそんな縋る様な目をして俺に迫ってくるんだな。
仲がいいとそんなところまで似てくるのか?」
星光「あぁ……」
根岸「そうだな。関係ないと言ったら嘘になるな。
君が夏鈴の親友だから特別に話すよ。
それにあんなみっともない場面も見られてしまったからな」
星光「みっともないなんて。
とても男らしくて凛々しかったっていうか、
夏鈴さんが言ってた通りの人だなって思いました」
根岸「そう」
星光「それに、
夏鈴さんを大切に想ってくれてるんだなって安心しました」
根岸「そうか(微笑)
出逢った時からずっと愛してるし、俺にとって大切な女性だよ。
それじゃあ、今から一緒に飲みながら昔話でもするか」
星光「えっ」
根岸「そこに座ってて。お酒、飲めるだろ?」
星光「は、はい」
根岸さんは棚からグラスをふたつ取り、冷蔵庫からレモンと氷を出し、
お酒とトニックウォーターを注いで手際よくレモンを絞ると、
ソファーで待つ私に手渡して隣に腰かけ、グラスを傾けた。
根岸「これはズブロッカっていうウォッカだよ。
ポーランドの酒で俺のお気に入りなんだ。
飲めば少しは元気が出る」
星光「ウォッカ…ありがとうございます。
いただきます……
わぁー。美味しい……バニラ?
それともフルーツ?」
根岸「あぁ。桜餅みたいな味がするだろ?」
星光「ええ!そうですね。
ほんのり甘い味わいがして飲みやすいです」
根岸「ビンの中に入ってるのは、バイソングラスっていう薬草なんだ。
ポーランドの“ビアウォヴィエジャの森”という世界遺産に生息する、
絶滅危惧種のヨーロッパバイソンが好んで食べると言われる草だよ」
星光「世界遺産に絶滅危惧種って、
私の日常ではまったくでてこないお話だから、
スケールが大き過ぎてびっくりです」
根岸「そうだな(笑)
ヨーロッパバイソンは聖牛とも言われていて、
力強さ、威厳、権力を象徴する動物なんだよ。
見てるだけでパワーを貰える」
星光「聖牛なんてすごいな」
根岸「今から5年半前のことなんだけど、
夏鈴と旅行に行く約束をしていたんだ」
星光「旅行、ですか」
根岸「行先はポーランドなんだけど、
以前、写真集の撮影でポーランドの仕事をしていたのもあってね。
同じ会社からまた撮影を依頼されたんで、
今度は夏鈴を一緒に連れて行って、
グルンヴォルトの歴史祭りを見せてやろうと思ってた。
でもその当時、俺は映画のパンフレットとメイキング撮影に入ってて、
その仕事が終わってから、
7月からポーランドでの仕事に取り掛かる予定だったんだ。
だから、夏鈴に内緒で二人分の航空チケットとホテルを予約してた」
星光「(夏鈴さん、根岸さんはここまで真剣に、
貴女を思ってくれてたんだよ。知ってた?)」
根岸「撮影の初日、
スターメソッドからカレンさんがカメラマンとして入ってて、
俺は彼女と行動を共にしながら仕事を熟していた。
けれどその時に彼女から別の仕事の相談をされたんだ。
かなり思いつめていたようで、
俺が入ることで彼女が助かるならと二つ返事で受けた。
そして撮影最後の日、その撮影現場で事故が起きた」
星光「事故……
(夏鈴さんが話してくれた、あの事故のことね)」
根岸「6月にしては蒸し暑くてあの日のことは今でも鮮明に覚えてる。
依頼されていた仕事の経過報告をしながら、
三脚を立てて撮っていた時だ。
撮影用のカメラクレーンめがけて暴走車が突っ込んできて、
クレーンの傍に居た俺とカレンさん、
スタッフ数名が事故に巻き込まれた。
俺は咄嗟にカレンさんを庇って、
車の下敷きになってしまったんだよ……」
星光「根岸さんが、車の下敷きに!?」
根岸さんは目を閉じて、グラスを握りしめる。
その惨劇を確認するように思い出している。
私の目にはその姿がとても痛々しく映っていた。
根岸「そう……
意識が回復した時には、もう7月に入っていて、
それからの3か月間は痛みとの戦いが始まった。
ボロボロになったのは身体だけじゃなく心もだった。
俺はポーランドの仕事はもちろん、
いちばん大切な夏鈴を失ったんだ。
夏鈴は俺に連絡をしても返事がまったくないことで悩んでたようで、
ほかに女ができたんだと思い込んでいたらしい。
最後に夏鈴に会った時、俺の隣にはカレンさんがいて」
星光「カレンさん」
根岸「どうしても夏鈴を諦めることができなかった俺は、
彼女のうちまで逢いに行ったんだが、
彼女の隣には誠実で真面目そうな男が居て、
俺の入る隙はもうなくなってた。
それから俺は本名の桑染洋史を捨てて、
長年勤めた会社を辞めて、仕事の名前を根岸洋行に変えたんだ」
星光「そんな……」
根岸「それからの俺は、堕落の一途をたどって今に至るわけだ」
星光「そんなの、あまりにも悲しいお話ですよ」
根岸「星光さん?」
私は思わず、お酒を飲み干す根岸さんの腕を優しく掴んで俯いた。
根岸さんと夏鈴さんの苦悩を考えるとボロボロと流れる涙が止まらない。
彼はそんな私の髪をぐしゃぐしゃするように撫でながら
困った奴だなぁと呟くような目で、私が泣き止むまで見守っていた。
しかし、その話を聞いていたのは私だけでなくもうひとり居たのだ。
その人物は階段の中段に座って、
じっと私達の様子を見ていたのだった。
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